木更津市
木更津市(きさらづし Kisarazu.City)は、千葉県中西部に位置する市。東京湾に面し房総半島中部の上総地方における代表的な市の一つである。地名に港を表す津の文字が用いられている通り、古代より房総半島の物流拠点である港町として発展する。
明治維新期には廃藩置県により成立した木更津県の県庁所在地として機能していた時期があり、1950年代以降の高度成長期には県の東京湾岸では京葉工業地域が発展する中、木更津市は商業都市としての性質を強め、県南地方において木更津商圏を形成し商業中心都市となるが、1990年代のバブル崩壊の影響により地域経済が低迷する。現在、東京都心への一極集中緩和を目的とする第4次首都圏基本計画に基づいて業務核都市に位置付けられ、第5次首都圏基本計画では東京圏内における広域連携拠点として整備が進められる。また、国際会議(コンベンション)推進を目的とする国際会議観光都市に認定されている。
市内の主な名所には海ほたる(東京湾アクアライン)や狸囃子伝説で知られる證誠寺などが挙げられる。歌舞伎の演目『与話情浮名横櫛』の舞台として知られる他、2002年には当市を舞台にしたテレビドラマ『木更津キャッツアイ』が放映され話題となる。
人口
市制が開始された当初はおよそ3万人の人口であった。市制開始以降は近隣の町村との合併により人口増加を続け、1971年に富来田町と合併した時点で人口が86,335人となる。1960年代に入ると県内では内房地域の市町村を中心に、海岸線を埋め立て工業地として整備し、重化学工業メーカーが多数進出する。木更津市においても関連企業の転勤者およびその家族が転入し人口が著しく増加する。1976年には人口10万人を突破し県内で9番目の10万人都市となる。1985年には人口12万人まで増加するが、1990年代に入ると増加傾向にあった人口推移はピークを迎え、横ばい、減少傾向へと変わり始める。
歴史
木更津と言う地名の由来について、如月の津が転じて木更津になった、木足らずが訛り木更津になったと諸説あるが、一般的には倭建命伝承の一説、君不去(きみさらず)が元になっているというのが通説である(下記の伝承の項参照)。木更津という地名が使われ始めたのは、最も古い文章で1353年(文和2年/正平8年)に記された文献[24]で木佐良津と記されている。ただし、当時の江戸湾沿岸を代表する港は木更津の北にある高柳(現在の木更津市高柳)や富津であったと考えられており、1576年に江戸湾沿岸の諸港に半手(戦国期に領土を争う両勢力が紛争地の租税を暫定的に半分ずつにする事)を認めた北条氏規の朱印状には内陸化した高柳に代わって江川や葛間(現在の久津間、江川とともに木更津市)の名前はあるものの、木佐良津の名前はないため、当時は租税を取る程ではない小さな漁港に近かったと推測されている。
『古事記』や『日本書紀』によると、倭建命が東征の折にこの地方に立ち寄ったと記されており、この事象が元となった地名が随所に見られる。しかしこれらの文献の歴史書としての正確性を考慮すると倭建命という人物は伝説上の架空の人物であり、事実というよりも創作と見解つけるのが妥当である。ただしこの一説を完全否定するのではなく、歴史的に考察するとこの地方には倭王権に敵対する勢力が存在していた事を示しているという説がある。事実、小櫃川流域を中心とする地域には支配階級にあたる豪族(国造)が存在していたとされ、それを証明する古墳群が形成されている。奈良時代の文献には小櫃川流域一帯(現在の木更津市、袖ヶ浦市、君津市の一部に相当)を馬来田国として記されており、この地方を馬来田国造という豪族が支配していたと記録されている。1950年(昭和25年)市内長須賀の金鈴塚古墳(二子塚古墳)の発掘調査が行われる。この古墳は6世紀後半頃に造られたものとされ、馬来田国造の一族のものとされる。この古墳からは太刀や銅容器・武具・古墳名称の元となる純金製の5つの金鈴などが出土されている。
1456年(康正2年)頃上総武田氏の祖である武田信長が上総守護代となり、上総地方進出の足がかりとして真里谷城を築城する。以降、真里谷城は庁南城(千葉県長生郡長南町)と並び上総武田氏の居城として繁栄する。武田信長の子孫の内、真里谷城を拠点とするものは真里谷氏を名乗り戦国大名化する。真里谷氏は一族の内紛と第1次国府台合戦の末に勢力が衰退し、上総地方の支配者も真里谷氏から里見氏、北条氏へと移り変わる。1590年(天正18年)真里谷城は豊臣秀吉の小田原の役で侵攻された後、廃城になる。現在、真里谷城跡はキャンプ場(少年自然の家)として利用されている。
1614年(慶長19年)大坂冬の陣に木更津の水夫24名が徳川幕府方について戦功を上げる。その水夫の功により幕府は、江戸−木更津間での渡船営業権や江戸の日本橋に「木更津河岸」を拝領地として与える等の特権を与える[25](ただし、その根拠とされている現存文書は史実と矛盾する内容が含まれており、今日では偽文書と考えられている。もっとも、元和年間(1615年)以後に幕府が木更津に代官を置いた記録は確認できるため、これに近い事実はあったと考えられている)。幕府は軍事上の目的から主要河川に橋を架けることを禁止し陸路には至る所に関所を設ける政策を採っていた為、この時代の流通手段は水運が主流になる(河岸を参照)この特権により木更津は安房・上総−江戸間との海上輸送を取り扱う流通拠点として急激に発展する。運送には喫水が浅く海川両用の五大力船が用いられた。木更津から江戸にやってくる五大力船は通称木更津船と呼ばれ、歌川広重の浮世絵にも描かれている。歌舞伎の演目『与話情浮名横櫛』は江戸期に木更津で実際に起きた事件がモチーフとなっており、当時の港町木更津の様子を垣間見ることができる。
江戸時代末期の1825年(文政8年)幕府の旗本であった林忠英は3,000石の加増を受けた事により1万石の大名として諸侯に列し貝淵藩を立藩する。陣屋を望陀郡貝淵村に設けられるが、2代目藩主の林忠旭の時代に請西村に移し、以降同藩は請西藩と称するようになる。請西藩は、最後の藩主である4代目林忠崇が藩主自ら脱藩し明治政府の東征軍に抵抗したことが朝敵行為とされ、1868年(明治元年)幕府方諸侯の中で唯一改易処分を受ける。
明治新政府樹立後、1868年(明治元年)改易となった請西藩の替わりに松平信敏が上総国貝淵に移封し1万石で桜井藩が立藩する。1871年(明治4年)廃藩置県施行により8月には桜井藩は廃藩となり桜井県が設置、11月には桜井県を含む旧安房国・上総国に相当する木更津県が設置される。木更津県設置にあたり県庁が貝淵村に設置される。木更津県が存在したのはわずか2年足らずで、1873年(明治6年)には廃止し、印旛県と合併し千葉県となる。1878年(明治11年)制定の郡区町村編制法に基づき望陀郡、周淮郡、天羽郡の郡役所が設置され、1897年(明治30年)望陀、周淮、天羽の3郡が合併し君津郡が成立した時に君津郡役所が設置されており、君津郡地域において木更津市は政治的中心都市であった。
日本国内が軍国主義にある1930年代、木更津は軍都として発展する。1935年(昭和10年)当時の大日本帝国海軍が帝都防衛を目的として、木更津港北側を埋め立て木更津海軍航空隊を設置する事を決定し、1936年(昭和11年)4月1日に開隊式が行われる。1941年(昭和16年)同航空隊の北東、君津郡巖根村に海軍工廠(第二海軍航空廠)が設置され[26]、木更津町および巖根村には工廠で働く工員とその家族が移住してくる事になり、急激な人口増加による住宅不足の問題に直面する。2町村では大勢の移住者を受け入れる住居や新しく家を建てる土地も無く、隣接する清川村にも移住者の受け皿としての役割を求めるようになり、木更津町、巖根村、清川村の3自治体を中心に合併協議が進められる。後に協議に加わった波岡村を含める4自治体の人口の合計が当時の市制施行条件である3万人を越すことが人口調査の結果で判明し、1942年(昭和17年)木更津市として市制を開始する。木更津基地は日本初の国産ジェット機にあたる橘花のテスト飛行が行われた場所であり、1945年(昭和20年)太平洋戦争終結以降は米軍の管理下に置かれることになり、1968年(昭和48年)より陸上自衛隊の駐屯地、海上自衛隊の補給所として利用されている。
1961年(昭和36年)木更津市に隣接する君津市へ八幡製鉄所(現新日本製鐵君津製鐵所)の誘致が決定する。その背景には1950年(昭和25年)に公布された国土総合開発法において千葉県側東京湾沿岸地域の工業地帯化が計画され、農業から工業への転換を図りたい県との思惑が一致し京葉工業地帯の開発が促進された事による。製鉄所建設に伴い君津郡地域の東京湾沿岸部で漁業を営んでいた漁家は埋立てによって職を失う事になり、県より漁業補償を受けて漁業権を放棄、転業を余議なくされた。[27]漁業組合と漁業権放棄に関する交渉が終了し、木更津港南岸から君津市の臨海部の範囲を埋立てて製鉄所の建設を開始、1965年(昭和40年)に君津製鉄所の操業が本格的に開始する。君津市への製鉄所進出は木更津市にも影響を及ぼし、木更津市内には同社の系列・関連会社が進出しその社員および家族の転勤による移住が顕著になる。また1960年代から70年代後半にかけて区画整理事業として清見台、請西、畑沢など波岡地区を中心に計 821haの土地の宅地造成が行われる。それにより、市内の人口が1960年には約6万人であったのが80年代中頃には12万人を突破、およそ20年の期間で人口が2倍にまで膨れ上がる。
1983年(昭和58年)千葉県において千葉新産業三角構想が策定される。木更津市およびその周辺都市(君津、富津、袖ケ浦)は新産業三角構想の基幹プロジェクトの一つであるかずさアカデミアパーク構想において、研究開発拠点の母都市に位置付けらる。研究開発拠点の形成を目標としたかずさアカデミアパーク構想に基づき、国際水準に対応した研究機関が集約する研究都市の整備および各拠点とを結ぶ道路網の構築が進められる。かずさアカデミアパークは上総丘陵に整備されることが決定し、1991年(平成3年)に鎌足地区に第一期区画整備が進められ、1994年(平成6年)にはDNA専門の研究所としては世界初となるかずさDNA研究所が開設する。1996年(平成8年)第一期区画整備で計画されていた278ヘクタールについては基幹整備がほぼ完了し、民間の研究所を中心に立地が進められる。[28]かずさアカデミアパーク構想および木更津業務核都市構想に基づき、木更津市を業務核都市として他の都市との道路網の整備が行われ、1995年(平成7年)館山自動車道が木更津南ICまで開通し、千葉市との間を高速道路で結ばれる。1997年(平成9年)東京都心部および神奈川県とを結ぶ東京湾アクアラインが完成。2007年(平成19年)館山自動車道が全線開通したことにより、富津館山道路と直結して南房総市までが結ばれる。2010年(平成22年)を目処に木更津東ICより千葉東金道路と直結する圏央道の建設が進められており、新産業三角構想の内の「国際物流拠点」を担う成田空港(成田市)と結ばれるようになる。
伝承
千葉県には倭建命と源頼朝に関連する伝承が多いという特徴が挙げられる。この特徴は木更津市においても同様であり、市内には関連する伝承が今に伝えられている。『古事記』や『日本書紀』、『風土記』の一説において倭建命伝説が扱われており、木更津市は倭建命が上総国に渡る場面の舞台として記されている。源頼朝伝説は、源頼朝が伊豆で挙兵したものの平氏との合戦に敗れて安房に逃れ、房総半島の諸勢力の力を得て再起したという歴史的経緯[30][31]の中から派生したものである。また、童謡証城寺の狸囃子のモチーフとなった、市内の證誠寺に伝わる『證誠寺の狸伝説』が有名である。
倭建命の東征
倭建命の東国征伐のこと。船で上総国に渡ろうとした時に一行は海上で嵐に襲われる。そして倭建命の妻、弟橘姫は海に身を投じることで嵐を静めようとする。弟橘姫の祈りが通じたのか嵐が収まり一行は無事に上総国に渡る事ができた。それから倭建命はこの地に暫らく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。「君さらず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき」 この歌の一節君さらずが転じて、木更津という地名となったと伝えられている。
市には吾妻という地名があるが、倭建命が弟橘姫を偲んで「吾妻はや(我が妻よ)」と言った故事に由来するとされている。市内には吾妻神社という神社が存在し倭建命と弟橘姫が祀られている。またこの地域には吾妻、我妻を姓とする人がおり、これも倭建命伝説に由来しているとされている。
源頼朝伝説[32]
石橋山の戦いで平家に敗れた源頼朝がこの地方に立ち寄った際に見かけた竹林があまりにも立派だったため、この竹を源氏の旗竿にすることにした。以降この地を旗竿村と呼ぶようになった。伝承では市内の畑沢[33]という地名はこの旗竿村に由来するとされている。また、草敷という地名についても頼朝が刈草を敷いて休息をとったという言い伝えが元になっている。
源頼朝が鎌倉幕府開府にあたり、市内の八剱八幡神社に神領を寄進して社殿を造営したという伝えがある。
證誠寺の狸伝説
市内の證誠寺に伝わる伝説で、童謡『証城寺の狸囃子』はこの伝説を元に作られた。童謡は『しょ しょ しょうじょう寺〜♪』と軽快なリズムの明るい曲だが、昔話として伝わる狸伝説は「秋の夜に和尚と何十匹もの狸が寺の庭で囃子合戦をした挙句、夜が明けたら調子を取っていた狸の親分が腹を破いて死んでいた」という面白くも悲しい話である。
港湾
江戸時代より木更津港は物資の集散港として機能し、1960年代の京葉工業地域の発展に伴い工業港として開発が進められる。1968年には間税法上の開港および重要港湾の指定を受ける。
1965年から1997年までの間、木更津港はカーフェリーの発着場として機能し、謂わば市の玄関口としての役割を果たしていた。カーフェリーは対岸の川崎市や横浜市に職場を持つ通勤者の足としても利用され、1987年にTBS系列で放映したドラマ『男女7人秋物語』の作中において木更津市に住む主人公が川崎市の職場へフェリーで通勤するシーンからも当時の様子を知ることができる。1997年、東京湾アクアライン開通に伴い川崎フェリーが廃止され、木更津港を就航するフェリー航路がすべて廃止となる。現在、着岸地点の可動橋は撤去されてフェリー発着場としての形跡は残っていない。
映像
* 木更津キャッツアイ ワールドシリーズ(映画、2006年)
* 三菱自動車「i(アイ)」(TVコマーシャル、2006年) ― 生活篇の一部に市内の建物が登場しており、右下に「木更津」と書いてある。
* 木更津キャッツアイ 日本シリーズ(映画、2003年)
* 木更津キャッツアイ(TVドラマ TBS系、2002年)
* 六番目の小夜子(TVドラマ NHK、2000年) ― 木更津市という設定ではないが、メインロケ地として太田中学校など市内の施設が登場する。
* 大地の子(TVドラマ NHK、1995年) ― 中国残留孤児をテーマにしたNHK放送70周年記念ドラマ。主人公の実父が住んでいる場所として木更津市が関連する。作中に「東洋製鉄木更津製鉄所」という製鉄所が登場するが、そのモデルは新日鐵君津製鐵所(君津市)でありロケ地にも採用されている。
* 男女7人秋物語(TVドラマ TBS系、1987年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

