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青ヶ島村

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青ヶ島村(あおがしまむら)は、東京都の村。伊豆諸島の南部に位置する青ヶ島全域を村域とする。他の伊豆諸島の町村と同じく所属する郡はなく、「東京都青ヶ島村」が正式な表記である。青ヶ島村を所管する都の行政出先機関は八丈支庁である。

伊豆諸島に属する有人島としては最も南に位置しており、日本国内で最も人口の少ない地方自治体としても有名である。人口の約半分が島外出身の村役場職員や学校教員・建設作業員及びその家族で占められていることから島民の平均年齢は30歳代後半と、離島としては若い。

地理

東京の南358.4kmの太平洋上に浮かぶ伊豆諸島の島である。一番近い八丈島からは南へ71.4km離れている。

世界でも珍しい端正な二重のカルデラの複成火山の島である。外側のカルデラの中央には丸山という内輪山がある。青ヶ島の最高点はこの丸山を取り囲んでいる外輪山の北西部分に当たる大凸部(おおとんぶ)で標高423.0mである。

現在、人が定住している集落は島の北部にあり、村役場を中心に東側の休戸郷(やすんどごう)と西側の西郷(にしごう)の二つである。郵便番号は100-1701。いずれの集落であっても島内の全ての住所は青ヶ島村無番地である(大字や字に相当するものがない)。そのため、住所を書かなくても郵便番号と宛名さえ書けば郵便物が届く。ただし、住民のほとんどが「佐々木」「奥山」「菊池」「廣江」のいずれかの姓であるため、宛名は名までを間違いなく記入する必要がある。

港は島の南西部にある断崖絶壁の下の「三宝(さんぽう)港」のみである。かつての三宝港は、漁船やはしけ程度の船舶しか着けられないようなささやかな船着場であった(この頃は、人や物資の搬入は沖合いに停泊した船から、はしけでピストン輸送するしかなく、荷揚げに時間がかかった。また、少しの高波でも作業が出来なくなったため、就航率が極端に低く、天候急変による作業中の船舶の離脱もあり、積み残しが多かった)。120億円を投じて建設された現在の同港には防波堤を兼ねた貨物船用の波止場もでき、500t級の船舶が着岸できるようになった。しかし、付近の黒潮の激しさと同港の貧弱さから、定期船「還住(かんじゅう)丸」(後述)の就航率は6割弱と低い状態が続いている。このため、三宝港の補うべく島の南東部に「大千代港」が建設されたが、冬季にはほぼ毎日高い波を受け接岸できないうえ、現在は港への道路が大きく崩壊しており利用できなくなっている。

空路は1993(平成5)年8月25日以降、東邦航空のヘリコプターによるコミューター『東京愛らんどシャトル』が八丈島を経由して伊豆諸島のほかの島との間に開設されている。空路は、航路よりも運賃は高いが就航率がはるかに高いため島民の主たる足となっている。このヘリコミューターが開設される前は、いったん海況が悪化すると、一切の物資が届かず来島者も帰れないという状態が半月以上続くことが珍しくなかった。

気候は温暖湿潤である。

歴史

* 1785年 - 「天明の別れ」(天明5年の大噴火)

この年の4月18日から始まり5月頃まで続いた大噴火が青ヶ島の最も新しい火山活動である。当時327人いたとされる島民のうち202人が八丈島からの救助により避難するも、避難に間に合わなかった残りの者は爆発に巻き込まれて全員死亡したとされる。
八丈島での避難生活は、時には流人以下の扱いを受けるという悲惨なものであった。これは、不作続き(天明の大飢饉)で八丈島民だけでも食うのがやっとなのに幕府が避難民の他地域への移住を認めなかった(さらに八丈島の流人はもともと武家など身分の高い人物ばかりだった)というやむを得ない事情による。かつての豊かな青ヶ島を夢見て帰島を企てる者も幾度かあったが、八丈島と青ヶ島の間の海で遭難したり、青ヶ島に渡ることに成功しても噴火で荒廃した土地では生きていけず、かなわなかった。

* 1817年 - 隠居した名主にかわり佐々木次郎太夫が名主となる

佐々木次郎太夫の周到な計画のもとで、帰島事業が着々と進められる。

* 1824年 - 「還住」

この年についに還住(全島民帰還)を果たす。

* 1835年 - 島の再興が宣言される(検地が行われ、正規の年貢が納められるまでになった)

天明の別れから復興まで半世紀もの歳月がかかった。定期船「還住丸」の名称はこの一連の出来事に由来している。この時点での島の人口は241名(男133名、女108名)。

* 1940年4月1日 - 町村制施行

青ヶ島は八丈支庁となり、青ヶ島村が置かれる。

* 1946年1月29日 - 日本からの一時的な行政権切り離し

連合国軍総司令部(GHQ)が発表した「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件」という覚書により、日本政府の行政権から切り離される。他の伊豆諸島の町村と同じく同年3月22日に復帰。

* 1956年7月8日 - 初の国政選挙実施

青ヶ島は僻地で通信手段がないとの理由から、国政選挙および都政選挙については日本国憲法で保障された参政権が制限され、選挙に参加できなかった。短波による無線電話が整備され、この日行われた第4回参議院議員通常選挙が青ヶ島初の国政選挙となった。

産業

前記のとおり島民の約半分が村役場職員や建設作業員であるため、主な産業は公共事業及び島内出身者による農業である。農業のうち、特に畜産業(繁殖させた和牛〔黒毛和種〕の子牛を本土へ出荷、1972年〔昭和47年〕までは乳牛も飼養していた)はかつて島の基幹産業であった。近年では飼養者の高齢化による粗飼料耕作地の放棄やBSE問題などによって急速にその戸数・頭数を減らしている。

島の周辺海域はフィッシングスポットでもある。しかし、訪れる遊漁船の多くは八丈島からのチャーターであるため上陸する人は少ない。来島者の殆どは農林水産・土木関連を主とする公共事業目的の公務員及び建設作業の従事者である。

集落には5軒の民宿、1軒の自動車整備工場、2軒の商店、1軒の居酒屋がある(ただし、その居酒屋は看板がないため、島民にしか分からない)。この他に、製塩所付近にキャンプ場と地熱サウナがあるが観光地化されているとはいえない。

黒毛和牛の他の名産品としては、三宝港よりポンプで汲み上げた海水から火山の地熱を利用して作ったひんぎゃの塩(「ひんぎゃ」は島言葉で「噴気孔のある場所」の意)がある。また、島特産の「かんも」(サツマイモの1品種)を原料とした芋焼酎「青酎(あおちゅう)」が最近かなり有名である。しかし、牛の頭数減少によってかんもの栽培に用いる堆肥が減少し、また青酎自体が有名になりすぎてしまったこともあって、供給が間に合わない状態になっている。

ひんぎゃの塩及び青酎は先述の商店や八丈島の土産物店等で購入する事ができるが、実は、青酎に関しては一部の民宿でも自家製が宿泊客に振る舞われている。1984年に青ヶ島酒造合資会社が設立される前は、徴税コストに見合わない(つまり、交通の便が非常に悪いため、税務職員も行きたがらない上、税務職員が赴く事で得られるであろう税収に対して経費が掛かりすぎる)という理由で酒税が課されることもなく、密造酒のような経緯で各家庭が勝手に焼酎を作って消費していた。これは現在でも事実上黙認状態であり、一般販売されている青酎も、外見は全く同じでもその中身を実際に作った生産者の違いによって各ボトル毎に味が微妙に異なる。

牛祭り

青ヶ島村の夏祭りである牛祭りは村内最大の行事である。この日に合わせて島外にいる村出身者が大勢帰省してくるため、島内は一斉に賑やかになる。また、祭りの実行委員会が作成するTシャツ(「牛ティー」と呼ばれている)は牛を主題にして毎年異なったデザインで作成されるため、島外にもファンが多い。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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