川崎市
川崎市(かわさきし)は、神奈川県の北東端に位置する政令指定都市である。東京特別区(東京23区)全体及び政令指定都市17市の中で面積が最も小さい。人口は全国第9位である。
地理
神奈川県の北東部に位置している。市の北端には多摩川が流れ東京都との境となっており、東部には東京湾が広がっている。北西部は多摩丘陵と呼ばれる丘を形成、商業地、及び古くからの閑静な住宅地が密集し、東京都心から伸びる私鉄各線を利用して都内に通勤・通学する家庭が多数居住する地域として歴史を有している。また大学等の高等教育機関も多数あり、文教都市としての側面も見られる。東部及び多摩川沿いの低地は住宅地のほか工業地が特に多く、東京湾岸に広がる埋立地は大規模な重工業地帯となっている。
歴史
中世以前
北西部の丘陵地帯に人が定住したのは古く、黒川などでは日本の旧石器時代や縄文時代の遺跡が確認できる。しかし、多摩川沿いや臨海部の低地はかつて海底だった場所が多く、多摩川の堆積作用や海面の低下により徐々に陸地化が進んだ。
7世紀に律令体制の整備により武蔵国の一部となり、奈良時代には現在の高津区に橘樹郡衙(たちばなぐんか)が置かれ、地域行政の中心になったと推定される。平安時代からは荘園が発達し、稲毛氏が広い地域を支配した。稲毛三郎重成は源頼朝の御家人の1人となって活躍した。また1128年(大治3年)には川崎大師(平間寺)が建立され、門前町の形成が始まる。その後鎌倉時代から戦国時代にかけては小規模領主による分治が進み、やがて北条氏の支配下に入った。
近世
1611年(慶長16年)には小泉次大夫の指揮により二ヶ領用水が完成、中野島から大師・大島に至る多摩川流域平野のほぼ全域を流れ、農業生産力の向上をもたらした。二ヶ領用水で潤った水田で生産された米は稲毛米と呼ばれ、江戸ですし飯として人気となる。また江戸幕府が成立したことで東海道や中原街道の重要性が高まり、川崎宿(現川崎駅周辺)の整備が進んだ。ただし、川崎宿が正式な宿場に指定されたのは東海道五十三次の中で最後となる1623年(元和9年)のことである。このとき多摩川の橋は流され、以後川崎宿は六郷の渡しの渡河点、及び川崎大師への玄関口として繁栄する。この他にも中原街道の丸子の渡し、大山街道の二子の渡し、津久井街道の登戸の渡しが整備され、いずれも後に東京都内への鉄道が建設される宿場町が形成された。
近代
明治・大正期は川崎駅周辺で都市化が急速に進行する一方、丘陵地帯では従来の農山村も維持されていた。その後昭和前期になると鉄道路線の開業が相次ぎ、私鉄沿線には住宅地が、多摩川沿いの南武線沿線には主に工業地が展開した。
プロ野球
川崎市を本拠地とするプロスポーツチームは、1952年に川崎球場が開設された当初は毎日オリオンズが準本拠として公式戦を使用していたが、公式な第1号は1954年結成の高橋ユニオンズであった。これは1953年当時パ・リーグが7チームで1チームは試合日程上休まざるをえない日程を解消することから勝率.350以下のチームは強制廃部させる罰則を決めたがそれを下回ったチームがなかったため、8チーム目の加入チームとして戦前もイーグルス軍の経営に参加した酒造メーカーオーナー・高橋龍太郎のポケットマネーにより、当球場をホームスタジアムとしてリーグ戦に参入したものであった。しかし、明くる1955年に大洋松竹(洋松)ロビンスが松竹の資本関係を解消した上で本拠地を移転し、下関市を本拠地とした時代に使用した大洋ホエールズに戻して参加すると、セ・リーグ、とりわけスター選手の宝庫といわれた巨人軍との対戦を中心に観客動員が上昇。高橋球団は経営的な危機に立たされ、選手面でもパ・リーグ各チームの戦力外選手を中心とした編成も災ったのか一度も上位に食い込めず、1957年のシーズン開幕前に大映スターズとの電撃的な吸収合体が発表され、川崎市を本拠とする第1号のプロスポーツチームは3年で消滅することになる。
一方大洋は人気の面では観客動員が飛躍的な伸びを見せるが、戦力は今ひとつで常に最下位争いが指定席だった。しかし、1960年に三原脩が西鉄から監督として招聘されると、投手では秋山登、島田源太郎、打者では近藤和彦、近藤昭仁らが活躍し巨人の5連覇を阻止して見事リーグ初優勝。日本シリーズでも全試合とも1点差という僅差で4連勝して日本一を決めた。その後は1964年に阪神との大接戦を演じ惜しくも優勝を逃したが、その後は再び最下位争いに定着してしまった。しかしながら、ライバル・巨人、特に世界のホームラン王・王貞治が一本足打法第1号(1962年)、日本プロ野球初の700号(1976年)など多くのホームランを打ち込んだのも一つの人気であった。
だが、1978年のシーズン開幕時に横浜市に新設(厳密には横浜公園野球場の全面改修)される横浜スタジアムへの本拠地移転を示唆。川崎市民は本拠地の移転に反対したが、横浜移転は強行された。その後当時東京都近郊にメインスタジアムがなく、事実上仙台市を本拠としていたロッテ(その当時も川崎で準本拠地的に数試合開催された)にアプローチをかけ、1978年から本拠地として使用することになった。川崎時代のロッテは観客動員に苦しむが、1980年の張本勲3000安打、1984・85年の落合博満の3冠、また1988年の近鉄のリーグ優勝をかけた10・19決戦など、注目の好カードが展開された。しかし、そのロッテも福岡市や千葉市など各地からの移転のラブコールもあったため決して満足なホームタウンとはいいにくい面もあった。そのロッテもついに1992年のシーズンから千葉市にある市営の新球場千葉マリンスタジアムに移転。これが川崎市を本拠とする最後のプロ野球チームとなった(公式戦は1992年に千葉ロッテ vs 近鉄戦が開かれ、これが最後となった。本来は1993年に15年ぶりのセ・リーグ公式戦として組まれた横浜 vs 阪神戦が予定されたが雨天中止となり、予備日も設定されなかった)。
また川崎球場自体も阪神・淡路大震災を契機に開かれた耐震調査で震度5以上の大地震でスタンドが倒壊する恐れがあるということからスタンドの取り壊しが決定。2000年3月、横浜vs千葉ロッテのオープン戦を最後にプロ野球の開催球場から身を引くこととなる。現在、川崎市には等々力球場もあるが、設備の都合上1軍の試合は開催できず、プロ野球公式戦の開催予定は立っていない。
Jリーグ
Jリーグ発足以前、川崎市には、東京都稲城市と多摩区にホームタウンを有する旧JSL1部に読売FC、東芝堀川町サッカー部(東芝)、日本鋼管サッカー部(NKK)、同2部には富士通サッカー部がそれぞれ川崎市で多くの公式戦を開いていた。Jリーグ開幕に当たって、東芝、NKK、富士通ともプロサッカーチームを川崎市で結成することに難色を示し、読売FCが川崎市を本拠地とするプロサッカーチームとなった。
読売は当初東京都を本拠としたい意向だったが、都内にJリーグの開催規格のスタジアムが国立霞ヶ丘陸上競技場(国立)や駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場(駒沢)しかなく、しかも国立ゆえ特定チームの本拠地とすることは不適切であるため各チームが試合を開催できる中立的なスタジアムにすること、駒沢はすぐそばに国立病院機構東京医療センターが位置することから照明による光害により設置できずナイトゲーム開催が不可能であり、また騒音やアクセスも問題となるため、公式戦の多くを開いた等々力をホームとして活動することにした。
三浦知良、ラモス瑠偉、北澤豪など、当時の人気選手を多く抱えていたヴェルディ川崎は、 Jリーグ初代年間王者に輝き、翌年度も年間王者を達成し、人気だけでなく実力も兼ね備えたチームであった。しかし、当時の川崎市は、等々力の改修に殆ど手を付けず、マダラ模様で痛んだピッチの芝生の上(砂の部分)に塗料を塗るなど対応であったため、当時の人気チームらしからぬスタジアムとしてファンからの悪評を買うことになってしまった。その後、2年をかけて25000人収容のスタンドやピッチの拡張など、Jリーグ基準に適合したスタジアムへのリニューアルを実施したが、一方で、「川崎には代わりのチームがある」と発言したりもしていた。
この頃、NKKサッカー部は企業合理化のため1993年の旧JFLを最後に廃部が発表。東芝は川崎市でプロ化するとヴェルディのような人気が見込めず、またチームを維持することも難しくなっていたこと、札幌市でプロサッカーチームの誘致が活発化したことにより意見が一致し、1996年にコンサドーレ札幌として移転した。富士通サッカー部は当初はプロ化には参加せず、アマチュアイズム重視を目指したが、等々力スタジアムのある中原区の商店街や青年会議所が中心となって実業団チームから市民チームとして育てることとし、チームもこれに応じる形で1996年(旧JFL)にまずチーム名を「富士通川崎サッカー部」と川崎市の名前を被せて、1997年にJリーグ準会員(JFL2位以内でJリーグ昇格の権利獲得)となるのを機に富士通サッカー部を法人組織「富士通川崎スポーツマネジメント」、チーム名も「川崎フロンターレ」として再スタートすることが決まった。 2000年のシーズンを最後にヴェルディが東京都(東京(味の素)スタジアム)へ移転することが決まったため、川崎市から1部リーグのチームはこの時点で一旦消滅した。
川崎フロンターレは、2001年にはJ2に降格していたが、2004年、元鹿島アントラーズの関塚隆を監督として迎え、J2・2回目の優勝、J1復帰を決めた。フロンターレは、地域のコミュニティを重視し、試合だけに限らず様々なイベントに参加することをチーム運営の方針としている。2004年9月には川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー制定による認定を受け、さらに2006年4月にはフットサル施設「フロンタウン・さぎぬま」の指定管理者になっている。
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