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川崎市

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川崎市(かわさきし)は、神奈川県の北東端に位置する政令指定都市である。東京特別区(東京23区)全体及び政令指定都市17市の中で面積が最も小さい。人口は全国第9位である。

地理

神奈川県の北東部に位置している。市の北端には多摩川が流れ東京都との境となっており、東部には東京湾が広がっている。北西部は多摩丘陵と呼ばれる丘を形成、商業地、及び古くからの閑静な住宅地が密集し、東京都心から伸びる私鉄各線を利用して都内に通勤・通学する家庭が多数居住する地域として歴史を有している。また大学等の高等教育機関も多数あり、文教都市としての側面も見られる。東部及び多摩川沿いの低地は住宅地のほか工業地が特に多く、東京湾岸に広がる埋立地は大規模な重工業地帯となっている。

歴史

中世以前

北西部の丘陵地帯に人が定住したのは古く、黒川などでは日本の旧石器時代や縄文時代の遺跡が確認できる。しかし、多摩川沿いや臨海部の低地はかつて海底だった場所が多く、多摩川の堆積作用や海面の低下により徐々に陸地化が進んだ。

7世紀に律令体制の整備により武蔵国の一部となり、奈良時代には現在の高津区に橘樹郡衙(たちばなぐんか)が置かれ、地域行政の中心になったと推定される。平安時代からは荘園が発達し、稲毛氏が広い地域を支配した。稲毛三郎重成は源頼朝の御家人の1人となって活躍した。また1128年(大治3年)には川崎大師(平間寺)が建立され、門前町の形成が始まる。その後鎌倉時代から戦国時代にかけては小規模領主による分治が進み、やがて北条氏の支配下に入った。

近世

1611年(慶長16年)には小泉次大夫の指揮により二ヶ領用水が完成、中野島から大師・大島に至る多摩川流域平野のほぼ全域を流れ、農業生産力の向上をもたらした。二ヶ領用水で潤った水田で生産された米は稲毛米と呼ばれ、江戸ですし飯として人気となる。また江戸幕府が成立したことで東海道や中原街道の重要性が高まり、川崎宿(現川崎駅周辺)の整備が進んだ。ただし、川崎宿が正式な宿場に指定されたのは東海道五十三次の中で最後となる1623年(元和9年)のことである。このとき多摩川の橋は流され、以後川崎宿は六郷の渡しの渡河点、及び川崎大師への玄関口として繁栄する。この他にも中原街道の丸子の渡し、大山街道の二子の渡し、津久井街道の登戸の渡しが整備され、いずれも後に東京都内への鉄道が建設される宿場町が形成された。

近代

明治・大正期は川崎駅周辺で都市化が急速に進行する一方、丘陵地帯では従来の農山村も維持されていた。その後昭和前期になると鉄道路線の開業が相次ぎ、私鉄沿線には住宅地が、多摩川沿いの南武線沿線には主に工業地が展開した。

プロ野球

川崎市を本拠地とするプロスポーツチームは、1952年に川崎球場が開設された当初は毎日オリオンズが準本拠として公式戦を使用していたが、公式な第1号は1954年結成の高橋ユニオンズであった。これは1953年当時パ・リーグが7チームで1チームは試合日程上休まざるをえない日程を解消することから勝率.350以下のチームは強制廃部させる罰則を決めたがそれを下回ったチームがなかったため、8チーム目の加入チームとして戦前もイーグルス軍の経営に参加した酒造メーカーオーナー・高橋龍太郎のポケットマネーにより、当球場をホームスタジアムとしてリーグ戦に参入したものであった。しかし、明くる1955年に大洋松竹(洋松)ロビンスが松竹の資本関係を解消した上で本拠地を移転し、下関市を本拠地とした時代に使用した大洋ホエールズに戻して参加すると、セ・リーグ、とりわけスター選手の宝庫といわれた巨人軍との対戦を中心に観客動員が上昇。高橋球団は経営的な危機に立たされ、選手面でもパ・リーグ各チームの戦力外選手を中心とした編成も災ったのか一度も上位に食い込めず、1957年のシーズン開幕前に大映スターズとの電撃的な吸収合体が発表され、川崎市を本拠とする第1号のプロスポーツチームは3年で消滅することになる。

一方大洋は人気の面では観客動員が飛躍的な伸びを見せるが、戦力は今ひとつで常に最下位争いが指定席だった。しかし、1960年に三原脩が西鉄から監督として招聘されると、投手では秋山登、島田源太郎、打者では近藤和彦、近藤昭仁らが活躍し巨人の5連覇を阻止して見事リーグ初優勝。日本シリーズでも全試合とも1点差という僅差で4連勝して日本一を決めた。その後は1964年に阪神との大接戦を演じ惜しくも優勝を逃したが、その後は再び最下位争いに定着してしまった。しかしながら、ライバル・巨人、特に世界のホームラン王・王貞治が一本足打法第1号(1962年)、日本プロ野球初の700号(1976年)など多くのホームランを打ち込んだのも一つの人気であった。

だが、1978年のシーズン開幕時に横浜市に新設(厳密には横浜公園野球場の全面改修)される横浜スタジアムへの本拠地移転を示唆。川崎市民は本拠地の移転に反対したが、横浜移転は強行された。その後当時東京都近郊にメインスタジアムがなく、事実上仙台市を本拠としていたロッテ(その当時も川崎で準本拠地的に数試合開催された)にアプローチをかけ、1978年から本拠地として使用することになった。川崎時代のロッテは観客動員に苦しむが、1980年の張本勲3000安打、1984・85年の落合博満の3冠、また1988年の近鉄のリーグ優勝をかけた10・19決戦など、注目の好カードが展開された。しかし、そのロッテも福岡市や千葉市など各地からの移転のラブコールもあったため決して満足なホームタウンとはいいにくい面もあった。そのロッテもついに1992年のシーズンから千葉市にある市営の新球場千葉マリンスタジアムに移転。これが川崎市を本拠とする最後のプロ野球チームとなった(公式戦は1992年に千葉ロッテ vs 近鉄戦が開かれ、これが最後となった。本来は1993年に15年ぶりのセ・リーグ公式戦として組まれた横浜 vs 阪神戦が予定されたが雨天中止となり、予備日も設定されなかった)。

また川崎球場自体も阪神・淡路大震災を契機に開かれた耐震調査で震度5以上の大地震でスタンドが倒壊する恐れがあるということからスタンドの取り壊しが決定。2000年3月、横浜vs千葉ロッテのオープン戦を最後にプロ野球の開催球場から身を引くこととなる。現在、川崎市には等々力球場もあるが、設備の都合上1軍の試合は開催できず、プロ野球公式戦の開催予定は立っていない。

Jリーグ

Jリーグ発足以前、川崎市には、東京都稲城市と多摩区にホームタウンを有する旧JSL1部に読売FC、東芝堀川町サッカー部(東芝)、日本鋼管サッカー部(NKK)、同2部には富士通サッカー部がそれぞれ川崎市で多くの公式戦を開いていた。Jリーグ開幕に当たって、東芝、NKK、富士通ともプロサッカーチームを川崎市で結成することに難色を示し、読売FCが川崎市を本拠地とするプロサッカーチームとなった。

読売は当初東京都を本拠としたい意向だったが、都内にJリーグの開催規格のスタジアムが国立霞ヶ丘陸上競技場(国立)や駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場(駒沢)しかなく、しかも国立ゆえ特定チームの本拠地とすることは不適切であるため各チームが試合を開催できる中立的なスタジアムにすること、駒沢はすぐそばに国立病院機構東京医療センターが位置することから照明による光害により設置できずナイトゲーム開催が不可能であり、また騒音やアクセスも問題となるため、公式戦の多くを開いた等々力をホームとして活動することにした。

三浦知良、ラモス瑠偉、北澤豪など、当時の人気選手を多く抱えていたヴェルディ川崎は、 Jリーグ初代年間王者に輝き、翌年度も年間王者を達成し、人気だけでなく実力も兼ね備えたチームであった。しかし、当時の川崎市は、等々力の改修に殆ど手を付けず、マダラ模様で痛んだピッチの芝生の上(砂の部分)に塗料を塗るなど対応であったため、当時の人気チームらしからぬスタジアムとしてファンからの悪評を買うことになってしまった。その後、2年をかけて25000人収容のスタンドやピッチの拡張など、Jリーグ基準に適合したスタジアムへのリニューアルを実施したが、一方で、「川崎には代わりのチームがある」と発言したりもしていた。

この頃、NKKサッカー部は企業合理化のため1993年の旧JFLを最後に廃部が発表。東芝は川崎市でプロ化するとヴェルディのような人気が見込めず、またチームを維持することも難しくなっていたこと、札幌市でプロサッカーチームの誘致が活発化したことにより意見が一致し、1996年にコンサドーレ札幌として移転した。富士通サッカー部は当初はプロ化には参加せず、アマチュアイズム重視を目指したが、等々力スタジアムのある中原区の商店街や青年会議所が中心となって実業団チームから市民チームとして育てることとし、チームもこれに応じる形で1996年(旧JFL)にまずチーム名を「富士通川崎サッカー部」と川崎市の名前を被せて、1997年にJリーグ準会員(JFL2位以内でJリーグ昇格の権利獲得)となるのを機に富士通サッカー部を法人組織「富士通川崎スポーツマネジメント」、チーム名も「川崎フロンターレ」として再スタートすることが決まった。 2000年のシーズンを最後にヴェルディが東京都(東京(味の素)スタジアム)へ移転することが決まったため、川崎市から1部リーグのチームはこの時点で一旦消滅した。

川崎フロンターレは、2001年にはJ2に降格していたが、2004年、元鹿島アントラーズの関塚隆を監督として迎え、J2・2回目の優勝、J1復帰を決めた。フロンターレは、地域のコミュニティを重視し、試合だけに限らず様々なイベントに参加することをチーム運営の方針としている。2004年9月には川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー制定による認定を受け、さらに2006年4月にはフットサル施設「フロンタウン・さぎぬま」の指定管理者になっている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川崎区

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川崎区(かわさきく)は川崎市を構成する7区のうちのひとつである。東海道線から海側の地域。

地理

多摩川の下流から河口にかけての南側に位置し、全域が平地。海側は埋め立てにより工業地の造成が進んでおり、人工島の東扇島や扇島もある。なお扇島は全域が企業私有地であり、一般人の立ち入りはできない。

区勢

川崎駅前以外では主に一軒家が多く、下町と風情は似たものがあり、川崎市北部とは全く異なる雰囲気がある。区内には川崎コリアタウンや川崎沖縄労働文化会館(リトル沖縄)が所在しているが、これは朝鮮半島や沖縄県からの移住者およびその家族が多いためで、主に戦前から港湾や工場などの労働者として移住してきた人々たちである。最近では外国人労働者も増えつつある(トルコ人・ロシア人・フィリピン人など)。

東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線(産業道路)沿いでは新築住宅やマンションの建設が進んでおり、人口は今後も増えると予測できるため、学校や病院等の公共福祉関係の充実が課題となっている。

一時期、一部の地区においてホームレスの増加が問題となっていた(ホームレスへの暴行事件も発生した)が、愛生寮(路上生活者の一時的宿泊所)の設置や、富士見公園に同じような建築物の設置を始めるなど、市と区が連携して問題に取り組んでいる。

沿革

1972年、川崎市の政令指定都市移行に伴い、川崎区発足。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

幸区

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幸区(さいわいく)は、川崎市を構成する7区のうちのひとつである。昔は梅の名所として知られ、明治天皇の御幸があり、これを記念して御幸村と名づけられたのが区名の由来となっている。

地理

* 川崎市東部にあり、東側を流れる多摩川の下流域に位置する。西側には鶴見川やその支流の矢上川が流れる。なお面積は政令指定都市の区の中ではかなり狭い。*全般として平坦な地形であるが、西部の夢見ヶ崎地区などは丘陵地になっている。

沿革

近代以前

* 4世紀 夢見ヶ崎に古墳群が造成(-7世紀)
* 江戸時代 多摩川沿いに農村が点在し、東海道川崎宿の助郷村としての役割を負う
* 1872年 区域の東側に川崎駅が開業(当初は西口は存在せず)
* 1884年 明治天皇が小向村の梅林に行幸
* 1889年4月1日 塚越・古川・戸手・小向・下平間・南河原・(上平間・中丸子−両村は現在の中原区)の8村が合併して橘樹郡御幸村が成立。この他、現区域の一部は日吉村と住吉村(後に該当区域は日吉村へ)へ編入される。
* 1906年 川崎駅西口に横浜製糖(後の明治製糖、現在の大日本明治製糖)川崎工場が開業
* 1908年 横浜製糖工場の隣に東京電気(現在の東芝)川崎工場(1945年から堀川町工場)が開業
* 1914年 アミガサ事件(多摩川堤防建設に対し御幸村民等が神奈川県庁へ大量請願を実施)
* 1923年 関東大震災で明治製糖の工場が倒壊、後に新工場を建設
* 1924年7月1日 同郡川崎町・大師町と合併して川崎市が成立
* 1927年 南武鉄道(後の国鉄南武線)川崎駅−登戸駅、同矢向駅−川崎河岸駅(1972年廃止)が開業
* 1929年 新鶴見操車場が建設され、区域が分断(跨線橋を建設)
* 1937年 橘樹郡日吉村のうち、北加瀬・鹿島田・小倉の全域と矢上・南加瀬の一部が川崎市に編入
      (残部は横浜市へ編入)
* 1945年 空襲を受けて工場などに被害

現代

* 1949年 多摩川大橋が開通
* 1955年 第二京浜国道(国道1号)の拡幅整備が完了
* 1961年 小向町の東芝総合研究所内に東芝科学館が開館
* 1963年 都町に神奈川県警察御幸警察署(現在の幸警察署)を開設
* 1972年4月1日 川崎市の政令指定都市移行に伴い、幸区が発足
* 1972年 夢見ヶ崎動物公園が開園
* 1975年 幸区役所の総合庁舎が完成
* 1980年 横須賀線新川崎駅が開業
* 1984年 新鶴見操車場が廃止
* 1988年 明治製糖工場跡地再開発を巡ってリクルート事件が発覚
* 1995年 川崎市立看護短期大学が開校
* 1995年 明治製糖工場跡地にソリッドスクエアが開業
* 2000年 東芝川崎事業所(1998年堀川町工場・川崎本社から改称)が全面閉鎖
* 2000年 新鶴見操車場跡地に慶應義塾大学の新川崎キャンパスが開校
* 2003年 川崎駅西口にミューザ川崎セントラルタワーが開業 
* 2004年 川崎駅西口にミューザ川崎シンフォニーホールが開業
* 2006年 川崎駅西口にラゾーナ川崎プラザが開業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中原区

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中原区(なかはらく)は、川崎市を構成する7区のうちのひとつである。サッカーJリーグの川崎フロンターレの本拠地である等々力陸上競技場や川崎市市民ミュージアムなどのある等々力緑地が区内にある。また、県内有数のパンジーの生産でも知られる。

地理

川崎市のほぼ中部に位置する。区の東北は多摩川で東京都と境を接し、西南は横浜市港北区との境に矢上川が流れる。

沿革

近世以前

* 多摩川の流域平野には古い時期から居住が見られ、現在までに上丸子古墳などが発掘されている。
* 奈良時代に常楽寺が創建される。
* 平安時代初期に日枝神社が創建される。
* 12世紀後半に春日神社が創建され、この地域の荘園を支配する。
* 1604年、江戸と相模国中原(現在の平塚市中原)を結ぶ中原街道が定められ、丸子の渡しなどが整備される。
* 1608年、中原街道に小杉御殿が建造される。以後、多摩川による江戸防衛や将軍の鷹場の拠点として利用される。
* 1611年、二ヶ領用水が完成し、農業生産力が向上する。
* 1655年、東海道の重要性増加に伴い、小杉御殿が取り壊される。
* 1673年、中原街道の宿場として小杉宿が整備され、府中街道との交点になる小杉十字路を中心に繁栄する。

近代

* 1889年(明治22)、市制町村制の施行に伴い、橘樹郡の小杉村、上丸子村、宮内村、上小田中村、下小田中村、新城村の6か村が合併し、橘樹郡中原村に。
* また、同時に橘樹郡の木月村、苅宿村、今井村、市ノ坪村、井田村、北加瀬村の6か村が合併し、橘樹郡住吉村に。
* 1912年(明治45) 東京府(現東京都)との境界が整理され、多摩川以南の地域(荏原郡玉川村大字等々力の内)が編入される一方、以北の地域(大字小杉の内)が離脱して荏原郡調布村に編入される。
* 1925年(大正14)、中原村と住吉村が合併し、橘樹郡中原町に。(ただし、住吉村の大字北加瀬は日吉村に編入される。)
* 1926年(大正15)、東京横浜電鉄(現在の東急)丸子多摩川(現在の多摩川)−神奈川(現在の横浜駅付近)間が開業し、町内を初めて鉄道が走る。
* 1927年(昭和2)、南武鉄道(現在のJR南武線)川崎−登戸間が開業する。
* 1928年(昭和3)、ガス橋が完成する。
* 1933年(昭和8)、8月1日、中原町が川崎市と合併する。
* 1936年(昭和11)、中丸子に日本電気玉川事業所が建設される。
* 1938年(昭和13)、武蔵中原駅前に富士通信機(現在の富士通)が川崎工場を建設する。この時期に電気・機械の各工場が進出する。
* 1945年(昭和20)、小杉、丸子、武蔵中原駅前付近が米軍の空襲を受ける。
* 1945年(昭和20)、東横線に武蔵小杉駅が設置され、後に区内交通の拠点となる。

現代

* 1960年(昭和35)、法政二高が全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)で優勝する。
* 1964年(昭和39)、等々力の砂利採掘場跡が緑地化し、等々力陸上競技場が完成する。
* 1972年(昭和47)、4月1日、川崎市の政令指定都市移行に伴い、中原区が発足する。
* 1988年(昭和63)、等々力緑地に川崎市市民ミュージアムが完成する。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高津区

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高津区(たかつく)は川崎市を構成する7区のうちのひとつである。 溝の口駅(東急田園都市線)・武蔵溝ノ口駅(JR)を中心として東側の土地が主に再開発され、川崎市中部の中心商業地として発展している。

地理

* 川崎市のほぼ中部に位置する。多摩川に沿った低地と、その南側および西側に広がる丘陵地帯(多摩丘陵東端部)で構成されている。
* 夏は暑く、冬は寒い。ただし東京都心部ほどの都市気候にはなっていない。
* 住宅地域が多いが、大規模工場が比較的多く、準工業地域もある。溝口周辺には大規模商業施設も立地する。

* 区役所はJR武蔵溝ノ口駅・東急溝の口駅至近、警察署は高津駅至近、郵便局は梶が谷駅至近と分散しており少々不便。

町名

* 高津地区

溝口(みぞのくち)、二子(ふたご)、瀬田(せた)、諏訪(すわ)、北見方(きたみがた)、下野毛(しものげ)、久本(ひさもと)、坂戸(さかど)、宇奈根(うなね)、久地(くじ)、下作延(しもさくのべ)、上作延(かみさくのべ)、向ヶ丘(むかいがおか)

* 橘地区

末長(すえなが)、新作(しんさく)、梶ヶ谷(かじがや)、千年新町(ちとせしんちょう)、千年(ちとせ)、子母口(しぼくち)、子母口富士見台(しぼくちふじみだい)、明津(あくつ)、蟹ヶ谷(かにがや)、久末(ひさすえ)、野川(のがわ)

沿革

近世以前

* 「高津」の由来には諸説がある。大阪市の「浪速高津宮」付近の景観に似ているという説がある一方、高津中学校では「鷹津」を由来としており、確実な説はまだ存在しない。
* 丘陵部への人間の定住は早く、区南東部の子母口貝塚は縄文時代前期と推定されている。
* 新作の台地上(現新作小学校)からは新作小高台遺跡が発見され、弥生時代から古墳時代の遺物が多数発掘されている。
* 大和朝廷の支配が関東に及ぶと、律令制のもとで現在の高津区一帯は橘樹郡に属し、高津区千年付近に郡衙が置かれ、この地域の行政の中心になったと推定されている。
* 平安時代以降は荘園が発達し、周囲の寺社や有力豪族の支配地となる。
* 江戸時代からは東海道の脇街道として大山街道(矢倉沢往還)が整備され、二子の渡しや二子・溝口宿は江戸から大山阿夫利神社(現伊勢原市)へ向かう参拝者で賑わった。

近代

* 1889年(明治22) 8村が合併して橘樹郡高津村が成立。(溝口村、二子村、久地村、下作延村、久本村、諏訪河原村、北見方村、坂戸村)
また、7村が合併して同郡橘村が成立し(千歳村、新作村、子母口村、末長村、久末村、明津村、蟹ヶ谷村)、現在の高津区の南西部(橘地区)に。
この他、野川村が宮前村に、上作延村が向丘村にそれぞれ編入され、現在はその一部が高津区になっている。
* 1912年(明治45) 東京府との境界が整理され、多摩川以南の地域(宇奈根、瀬田の各一部および下野毛のほぼ全域)が編入される一方、以北の地域(久地、二子、諏訪河原の各一部)が離脱する。
* 1925年(大正14) 東京府荏原郡玉川村(現世田谷区)と高津村の間に二子橋が架かり、二子の渡しが廃止される。
* 1927年(昭和 2) 南武鉄道南武線(現JR南武線)川崎駅−登戸駅間が開業し、高津村が川崎市と鉄道で連絡される。以後、工場進出が本格化する。
* 1927年(昭和 2) 玉川電気鉄道溝ノ口線(現東急田園都市線)が二子玉川園駅から溝ノ口駅まで延伸される。軌道線で、多摩川は二子橋を道路と共用して渡る。
* 1928年(昭和 3) 高津村が町制を施行する。
* 1937年(昭和12) 4月1日に高津町、6月1日に橘村が相次いで川崎市に編入される。
* 1938年(昭和13) 現在の高津区域の全域が川崎市に編入される。

現代

* 1953年(昭和28) 東急電鉄の五島慶太会長が城西南地区開発構想を発表。
* 1962年(昭和37) 多摩田園都市の最初の区画整理事業が野川第一地区で完成。以後、南部丘陵地帯では東急グループ主導の住宅開発が進行する。
* 1965年(昭和40) 第三京浜が開通する。
* 1966年(昭和41) 東急田園都市線溝の口駅−長津田駅間が開業。同時に二子橋の軌道・道路併用利用が終了し、道路専用橋になる。
* 1972年(昭和47) 川崎市の政令指定都市移行に伴い、高津区(現宮前区の区域を含む)が発足する。
* 1977年(昭和52) 東急新玉川線(現東急田園都市線の一部)の開通により、渋谷と直結される。 以後、地下鉄半蔵門線の延長に伴い都心部へのアクセスが向上する。
* 1979年(昭和54) 政令指定都市移行を記念した川崎市民プラザが開館する。
* 1982年(昭和57) 区の南西部地域が宮前区へと分区される。
* 1989年(平成元) かながわサイエンスパークが開業する。
* 1997年(平成 9) 溝口駅北口再開発ビルが開業し、市民館が新装される。この他、高津区役所などの各種公共施設も移転している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

多摩区

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多摩区(たまく)は、川崎市を構成する7区のうちのひとつ。

北は多摩川を境に東京都と接し、南には多摩丘陵が広がる。多摩川梨の生産で有名である。

地理

概容

川崎市の北部に位置する。区の北は多摩川で東京都と境を接する。南には多摩丘陵が広がり、生田緑地は市民の憩いの場となっている。

歴史・沿革

古代

* 古墳時代 - 多摩川周辺に古墳が築造される。
* 飛鳥時代 - 律令制の下、武蔵国橘樹郡、多磨郡、都筑郡が設置される。

中世

* 平安時代末期 - 稲毛三郎重成が、枡形城に拠点を構え治める。この頃より江戸時代まで稲毛領と呼ばれる。
* 鎌倉時代初期 - 稲毛三郎重成の子、小沢小太郎重政が小沢城に拠点を構える。
* 室町時代 - 寺尾若狭守が寺尾城を築城。
* 1504年9月 - 立河原の戦い。北条早雲が山内上杉氏を攻める為、枡形城に入る。
* 1530年6月 - 小沢原の戦い。小沢城が後北条氏の拠点として利用される。

[近世

* 1590年 - 多摩川大洪水、流路が大きく北へ変わる。
* 1609年 - 小泉次太夫、六郷用水、稲毛・川崎ニヶ領用水上河原幹線を完成。
* 1629年 - 筧助兵衛、ニヶ領用水宿河原幹線を完成。
* 1690年 - 菅村が多摩郡より橘樹郡に編入。
* 1725年 - 稲毛領52ヶ村が御鷹場となる。
* 1782年 - 関東地方に大地震
* 1786年 - 多摩川洪水、猪方村堤(現:狛江市)の堤防決壊。
* 1787年 - 天明の大飢饉、登戸でも打ち壊しが起きる
* 1790年 - 多摩川洪水、矢ノ口(現・稲城市)・菅村境の堤防決壊、中野島村では人家が流失、登戸下流では床上4尺の浸水
* 1791年 - 多摩川流域で梨の栽培が始まる
* 1809年 - 多摩川出水、堤防120間余大破
* 1810年 - 宿河原村字船島の稲毛・川崎ニヶ領用塩樋床替、以前の場所より145丁上流になる。
* 1825年 - 猪方村堤(現:狛江市)8箇所切断、新堤築立
* 1831年 - 寺子屋が普及
* 1855年11月 - 安政の大地震
* 1859年 - 多摩川満水、周辺11ヶ村に被害

近代

* 1868年 - 東京府、神奈川県が設置
* 1871年 - 廃藩置県、世田谷が東京府と神奈川県にわかれる。
* 1875年 - 中野島村が多摩郡より橘樹郡に編入。生田村が成立。
* 1878年 - 郡区町村編制法により行政区画としての橘樹郡が編成される。
* 1889年4月 - 町村制により橘樹郡に向丘村[2]、稲田村[3]が成立。橘樹郡生田村に高石村、金程村、細山村が編入
* 1889年4月 - 都筑郡に柿生村・岡上村が成立。[5]
* 1893年9月 - 大師河原(現川崎市川崎区日の出町)で当麻辰次郎が他の梨とは違う品種を発見し「長十郎」と名付ける。
* 1894年 - 川崎街道が県道となる。
* 1898年9月 - 多摩川出水、宿河原取入口大破損
* 1910年 - 多摩川氾濫。稲田村など5ヶ村民が村区域変動で争う。宿河原の一部が切れて、狛江と地続きになる。
* 1912年4月 - 府県境界変更により多摩川を東京府と神奈川県の境とし、上布田の飛び地、下布田の飛び地、和泉の飛び地が稲田村に編入、宿河原の飛び地が狛江村に転出。
* 1912年 - この頃より稲田村、生田村で梨・桃の栽培が盛んになる。
* 1920年 - 多摩川砂利鉄道が南武鉄道となる。
* 1923年9月 - 関東大震災
* 1924年7月 - 川崎市が成立。(現在の多摩区にあたる地区は橘樹郡のまま)
* 1926年 - 向ヶ丘遊園開園
* 1927年 - 小田急線、新宿-小田原間の運転開始、豆汽車開業
* 1927年 - 神奈川県が「二ヶ領用水改良事業」を計画
* 1928年 - 登戸郵便局で電話業始まる
* 1929年12月 - 南部鉄道(現:JR南武線)全通 
* 1932年6月 - 稲田村が町制施行して稲田町となる。
* 1935年 - 多摩川原橋が開通により、「上布田の渡し」が廃止、「下菅の渡し」と「矢野口の渡し」が結合し「菅の渡し」となる。
* 1936年 - 「二ヶ領用水改良事業」に基づく用水路工事開始
* 1938年10月 - 橘樹郡の稲田町、向丘村、生田村が川崎市に編入される。
* 1939年4月 - 都筑郡柿生村、岡上村を川崎市へ編入。
* 1940年 - 「堰の渡し」廃止
* 1941年3月 - 二ヶ領上河原堰の改造工事に着手
* 1944年 - 南武線が国鉄になる。
* 1945年6月 - 二ヶ領上河原堰完成

現代(多摩区発足以前)

* 1949年5月 - 二ヶ領宿河原堰完成(コンクリートの固定堰)
* 1950年3月 - 豆電車開業
* 1951年 - 川崎市稲田公民館(後の多摩区民館)完成
* 1952年5月 - 川崎市稲田公民館に図書室を開設。
* 1953年 - 「多摩水道橋」完成、「登戸の渡し」廃止
* 1960年 - 宿河原堤の桜植樹開始
* 1960年 - 多摩川梨もぎとり連合会発足
* 1961年 - 登戸電報電話局開設
* 1962年4月 - 神奈川県警稲田警察署開設。
* 1963年10月 - 稲田図書館開館
* 1964年 - 稲田保険所ができる。
* 1964年9月 - 読売ランド開園
* 1966年4月 - 小田急向ヶ丘遊園モノレール線開通
* 1966年 - 二ヶ領用水、矢上川、平瀬川などで水があふれ、または決壊、床上浸水の被害。
* 1966年 - 南武線複線化
* 1966年 - 多摩川、一級河川に
* 1967年 - 日本民家園開園
* 1969年 - 東名高速道路開通
* 1970年 - 多摩川サイクリングコース開設
* 1971年4月 - 京王相模原線、京王多摩川駅〜京王よみうりランド駅間(2.7km)開業

現代(多摩区発足後)

* 1972年4月 - 川崎市の政令指定都市移行に伴い、多摩区発足。政令都市化に伴い稲田公民館、稲田図書館、稲田保健所、稲田警察署がそれぞれ多摩区役所・多摩区民館、多摩図書館、多摩保健所、多摩警察署に名称変更。
* 1973年 - 菅の渡しが廃止
* 1975年 - 住居表示施行に伴い高津区より長尾が編入。
* 1975年9月 - 多摩川水害で狛江市側住宅流失。ニヶ領宿河原堰を爆破。
* 1977年11月 - 多摩図書館新築開館し, 対面朗読室を設置。
* 1978年 - 多摩自然遊歩道完成
* 1982年7月 - 麻生区を分区
* 1988年6月 - 川崎都市計画事業登戸土地区画整理事業施行条例施行
* 1989年2月 - 川崎都市計画事業登戸土地区画整理審議会会議要綱制定
* 1995年 - 多摩川梨もぎとり連合会解散
* 1997年 - 多摩区総合庁舎開庁
* 1999年3月 - 可動式のゲートを備えた二ヶ領宿河原堰完成
* 1999年 - 生田緑地内に川崎市岡本太郎美術館開館
* 2001年2月 - 小田急向ヶ丘遊園モノレール線廃止
* 2002年3月 - 向ヶ丘遊園閉園(バラ園は市に移管され生田緑地の一部となる)

多摩川梨(稲毛梨)

* 嘗ては「稲毛梨」として東京市場の名産品として評判であり、1932年に「稲毛梨」から「多摩川梨」に名称を変更した。1952年に「多摩川果物協同組合連合会」が設立され「多摩川梨」の生産が拡大された。1960年に「多摩川梨もぎとり連合会」が発足し1980年代までは「梨もぎとり園」も多く存在し観光客も来ていた。現在は生産農家が減り路上販売が主である。
* 品種の変遷 - 多摩川流域で見つかった品種「長十郎」が多摩川梨の代名詞であったが、後に「二十世紀」と勢力を二分するようになり、1980年代以降は「幸水」「豊水」「新高」「多摩」などが主流品種となっていった。
o 長十郎、二十世紀、幸水、豊水、菊水、新水、旭、新世紀、新高、新星、稲城、多摩、あきづき

宿河原桃

* 嘗て「宿河原桃」は東京市場の名産品として評判であったが、1961年をピークに生産は減り、1970年代まではまだ主要な農産物であったが、現在は激減した。

のらぼう菜(野良坊菜)

* 川崎市多摩区菅地区で自家消費用で栽培されていた洋種ナタネに分類されるアブラナ科の野菜。近年はテレビ、新聞等で取り上げられ、多摩区の新たな名産品となりつつある。
* 多摩区以外では東京都あきる野市などでも栽培が盛んである。

多摩区を舞台とする作品

* 巨人の星 - 巨人軍宿舎が星飛雄馬と伴宙太の生活の場となった。
* ウルトラセブン - 第8話「狙われた街」でメトロン星人が向ヶ丘遊園駅に自動販売機を設置する。ダンとアンヌが張り込みをしていた喫茶店は今のケンタッキーの辺り。
* 飛び出せ!青春 - 向ヶ丘遊園駅北口が生徒たちの最寄駅として多々登場。
* 仮面ライダーV3 - 少年ライダー隊本部がある(劇中の郵便物に記載がある)。
* 高校教師(1974年版) - 向ヶ丘遊園駅北口にあった「喫茶・林道」が生徒の実家の設定で、登戸駅から向ヶ丘遊園駅周辺が度々登場。
* ツルモク独身寮 - 窪之内英策の漫画。劇中、小田急線喜多見駅から向ヶ丘遊園駅にかけての風景が登場する。
* ワタナベ - 窪之内英策の漫画。劇中、向ヶ丘遊園駅周辺の街並み、風景が登場する。
* ショコラ - 窪之内英策の漫画。漫画に舞台となったケーキ屋の建物のモデルとなったのは登戸の喫茶店「五線紙」(建替前)。
* 家なき子−主人公相沢すずの父、相沢悟志が住んでいたアパートの住所が登戸であった。
* NHKにようこそ!−主人公・佐藤達広が暮らす場所として登場。
* 超人計画−NHKにようこそ!の著者、滝本竜彦氏が生田に下宿した数年間を私小説とした。この体験がNHKにようこそ!や彼の作風に繋がる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

宮前区

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宮前区(みやまえく)は、川崎市を構成する7区のうちのひとつである。

地理

宮前区は、多摩丘陵上に位置し、区全域で起伏に富んだ地形を有する。その為、平地はいくつかの川に沿った地域および台地上の狭い地域のみである。そのため、坂が非常に多い。

東急田園都市線開通までは都心に近い立地を生かした農業を行うのどかな農村の体であったが(ただしその当時宮前区という区は存在しない)、同線の開通・東名高速道路東名川崎インターチェンジの設置以降、急速に人口が増加し、都市化が進んだ。もっとも、住民の多くは東京都内へ通勤・通学を行っており、東京のベッドタウンとしての位置づけが大きい。20万人の人口を有しながら高校が1校しかないことがそれを物語っている。商業的にも高津区・青葉区・そして東京都内の比重が大きい。

沿革

歴史

この地域は古くから人の定着があったらしい。東高根遺跡や馬絹古墳などの遺跡があるほか、影向寺は7世紀の創建で県内屈指の古刹という。

近世は、水はけの良い地質から畑作農業が中心となり、江戸・東京に近い立地から、果物の栽培や花の栽培が行われていた。昭和初期に地域は川崎市に編入されて川崎市の一部となるが、その後も戦後しばらくは交通過疎地帯であるために、のどかな農村の体を有していたようである。

もっとも、昭和41年の田園都市線開通によって地域は激変する。やはり東京に近いという立地から、東京のベッドタウンとして人口が急激に増加し、街も都市化する。宮前区は、当初高津区の一部に含まれていたが、人口が増加したためにその後に分区され、現在に至っている。

年表

* 1889年(明治22年) 町村制施行に伴い、橘樹郡宮前(みやさき)村、向丘(むかおか)村ができる。
* 1938年(昭和13年)10月1日 向丘村、宮前村が川崎市に編入される。
* 1972年(昭和47年) 川崎市の政令指定都市移行に伴い、高津区発足。
* 1982年(昭和57年) 高津区から宮前区が分区される。

区名の由来

宮前区の名前は、宮前区の地域を構成した村のひとつ、宮前村に由来する。宮前村は「みやさきむら」と読むが、宮前区が成立した際に漢字のみを継承し、読みは平易なものに改められた。

* なお、逆に読みの方を継承するのが宮前区内の地名「宮崎」(ただし、「みやざき」)である。

宮前村の名前は、宮前村成立時に村の中央に村役場が置かれたのであるが、その村役場の置かれた地が女躰権現社(現馬絹神社)から梶ヶ谷にかけての字名「馬絹村字宮ノ前(みやのまえ)」であったことに由来する。なお、「宮ノ前」とは女躰権現社(現馬絹神社)の前の土地という意味である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

麻生区

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麻生区(あさおく)は川崎市を構成する7区のうちのひとつである。川崎市の西北端に位置する。新百合ヶ丘駅周辺は川崎市の北部副都心として発展している。

概要

柿生地区は、柿の生産地であることからその名前がつけられ、禅寺丸柿が名産品となっている。 区中央部には百合丘第一・第二団地(百合丘第一団地については立替時にサンラフレ百合ヶ丘に改名、第二団地は建て替え中で百合ヶ丘みずき街に改名)があり、この団地は戦後の高度経済成長期に日本住宅公団(現在の都市再生機構)によって建設された典型的な公団住宅である。 そのほかにも区内は団地が多く、小田急小田原線・多摩線を軸にした東京のベッドタウンとして発展が続いている。

地理

川崎市の西北端に位置し、多摩丘陵の一部を占める。全体的に標高は高めであり、川崎市で最も標高が高い地点も麻生区内にある。区の中央から西に流れる麻生川沿いは標高が低くなっている。

そのため、麻生区はその周囲を流れる一級河川鶴見川水系および多摩川水系の分水嶺になっており、鶴見川水系麻生川、片平川、真福寺川、早野川、黒須田川、および多摩川水系五反田川、三沢川など多くの川の水源地になっている。

西部に飛地となっている岡上地区があるが、これは明治時代の歴史的背景によるものであり、 在住の中学生は飛地から本地へ通学している。

沿革

8世紀にはすでに朝廷に麻布を納めていたという記録が残っている。そして、鎌倉時代には「麻生郷」という記載がありこの時代から「麻生」の名があったことが分かる。

江戸時代末期には「細山村」「黒川村」で炭焼きが行われていたことを示す記述がある。この炭は「黒川炭」と呼ばれていた。

* 1889年 橘樹郡に生田村、都筑郡に柿生村・岡上村が成立。
* 1938年 橘樹郡生田村を川崎市へ編入。
* 1939年 都筑郡柿生村、岡上村を川崎市へ編入。
* 1972年4月:川崎市の政令指定都市移行に伴い、多摩区発足。
* 1978年 黒川より2万4千年前の石器が発掘される。
* 1982年7月:多摩区のうち旧柿生村・旧岡上村の全域、および旧生田村の一部が分区し麻生区が設置される。

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

* 弘法の松(百合ヶ丘)
o 弘法大師がこの地に立ち寄り、寺を建設しようとしたが谷の数が足りずに断念し、代わりに松の木を植えて立ち去ったという伝説が残されている。初代弘法の松は1956年12月に焼失し、今に至っている。
* 王禅寺−北原白秋が訪れた事がある。境内には、禅寺丸柿の原木が残っている。
* 川崎市アートセンター(劇場・映像ホール)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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