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横浜市

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横浜市(よこはまし)は、関東地方南部、神奈川県の東部に位置する都市で、同県の県庁所在地。政令指定都市に指定されている。日本の市町村で人口が最も多く、神奈川県内の市町村で面積が最も広い。首都圏内では東京特別区に次ぐ第二の都市である。

概要

横浜市は、東京都心から南へ約30km、東京湾に面した都市である。市政の中心地は関内地区(中区の関内駅周辺)で、市域の中央駅は横浜駅(西区)。経済活動の中心は関内地区から約3km北の横浜駅周辺地区へ移っており、両地区の中間に位置する横浜みなとみらい21地区(桜木町駅周辺)の開発を進めて、中心部の一体的な発展を図っている。

市域は、鎌倉に幕府が置かれた鎌倉時代から本格的に開発され始め、江戸時代には幕府が置かれた江戸に近いため、幕府直轄地や旗本領が大部分を占めた。横浜市内唯一の藩として六浦藩がおかれた。また、鎌倉幕府の海の玄関口として六浦湊(金沢区)が、江戸湾(東京湾)内海交通の要衝として神奈川湊(神奈川宿、神奈川区)が、早くから栄えた。江戸時代末期には、神奈川湊沖で締結された日米修好通商条約により、「神奈川」を開港場にすることが定められた。実際には神奈川湊の対岸にある横浜村(現在の中区関内地区)に新たに港湾施設が建設され、短期間に国際港の体裁を整えた。1859年7月1日(旧暦:安政6年6月2日)に開かれた横浜港は、「金港」とも呼ばれ、生糸貿易港、商業港、旅客港として、また工業港として、横浜を日本の代表的な国際港都の一つへと発展させる礎となった。

1889年(明治22年)4月1日に市制が施行され、横浜市となった[4]。市域の面積は、市制施行時には横浜港周辺の5.4km² にすぎなかったが、6次にわたる拡張と埋立てにより437.38km²(平成18年)となっている。1927年(昭和2年)の区制施行で市域は5区に分けられ、周辺町村の合併と区域の再編を経て、行政区の数は18区となっている。市制施行時の横浜市の人口は約12万人だったが、その後は第二次世界大戦中の一時期を除いて増加の一途をたどり、現在では約360万人となった。これは日本の市では最も多く、人口集中地区人口も東京特別区に次ぐ。1956年(昭和31年)には政令指定都市に、1988年(昭和63年)には業務核都市に指定された。

歴史

市域には、およそ25ヶ所の後期旧石器時代の遺跡が発見されている。縄文時代の遺跡は、都筑区の花見山遺跡など数多く見られる。中期までの弥生時代遺跡は少なく、中期後半以降は、都筑区の大塚・歳勝土遺跡など、方形周溝墓を伴う環濠集落が現れる。古墳の出現は4世紀の中期以降とされ、青葉区の稲荷前古墳群などはこの時代の遺跡である。

市域の地名に関する文献上の初出は、『日本書紀』の安閑天皇元年(534年)の条とされる。武蔵国に住む豪族が、橘花(たちばな。橘樹郡)、倉樔(くらす。後に久良(くら)郡、さらに久良岐(くらき)郡)ほか4ヶ所を屯倉として献上したと記される。7世紀後半までに市域には、武蔵国橘樹郡、久良岐郡、都筑郡、相模国鎌倉郡が置かれた。都筑区の長者原遺跡(ちょうじゃっぱらいせき)は、8世紀に成立した都筑郡衙跡とされる。なお、都筑郡の名が見える最古の記録は、『万葉集』である。927年(延長5年)には、都筑郡の杉山神社が、式内社とされた。この杉山神社には論社がいくつかあり、位置は確定されていない。

市域は奈良時代以降、人口も増えて生産力を高めた。平安時代には各所の開発も進み、板東八平氏や武蔵七党など、関東武士の力が蓄えられた。市域には、平子氏、榛谷(はんがや、はりがや)氏、稲毛氏、綴党(つづきとう)などの武士団が勢力を張った。今に残る弘明寺、宝生寺など、平安時代以前の建立とされる寺院は、これら有力武士団の支援を受けていたものと考えられる。

市域は、鎌倉に鎌倉幕府が開設された12世紀から本格的に開発が始まった。六浦湊(金沢区)が鎌倉幕府の玄関口として文化・交易・産業の中心地となり、中国との貿易や江戸内湾の交易によって栄え、武士や商人・職人・宗教者などが多く集まりにぎわいをみせ、漁業と海運業の発達へと繋がっていった。また、鶴見川や柏尾川などの河川流域では農業が発達していった。

横浜の名の初出は、室町時代中期の1442年(嘉吉2年)の文献である。この年、平子氏の家臣と思われる市川季氏と比留間範数の両名が、石河宝金剛院(現、南区の宝生寺)に、横浜村の薬師堂免田畠を寄進する旨の文書が残されている。横浜村は武蔵国久良岐郡に属し、神奈川湊の対岸、現在では市政の中心街になっている関内地区(中区)にあたる地域にあった。

江戸幕府が置かれた17世紀以降は、東海道の宿場とされた神奈川宿、程ヶ谷宿(保土ヶ谷宿)、戸塚宿を中心に発展する。特に、神奈川湊を持つ神奈川宿が江戸湾(東京湾)内海交通の要衝の一つとして栄え、対する六浦湊は、歌川広重が金沢八景を浮世絵としたように、風光明媚な景勝地としての色合いを濃くしていった。なお、江戸時代末期までの横浜村は、前出二つの湊とは対照的に、戸数わずか100戸足らずの砂州上に形成された半農半漁の寒村であった。

横浜村の運命を一変させたのは、ペリー率いる黒船の来航であった。黒船一行は六浦藩小柴村沖(現在の金沢区八景島周辺)に2ヶ月間投錨し、幕府の対応を待った後に横浜沖へと進み入り、幕府は横浜村に設営した応接所で外交交渉を行った。1854年(安政元年)に横浜村で日米和親条約が締結され、1858年(安政5年)には神奈川湊沖で日米修好通商条約が締結された。この通商条約に「神奈川」を開港するよう定めたことが、横浜の都市開発の発端となった。幕府は、東海道に直結し当時既に栄えていた神奈川湊を避け、外国人居留地を遠ざけるため、対岸の横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地とした。横浜村には、短期間で居留地、波止場、運上所(税関)など国際港の体裁が整えられ、安政6年6月2日(新暦1859年7月1日)に横浜港は開港した。横浜市では、6月2日を開港記念日としている。こうして、横浜は日本の玄関口の一つとなったことから、様々な文物をいち早く取り入れる国際色豊かな都市として発展し始めた。

横浜村は幕府が設置した運上所(税関)を境に、以南を外国人居留地、以北を日本人居住区とした。境界には関所が置かれ、関所から外国人居留地側を関内、日本人居住区側を関外と呼んだ。外国人居留地には、外国商館がたち並んだ。今に残る横浜中華街は、外国人居留地の中に形成された中国人商館を起源とする。日本人居住区は横浜町と名付けられ、その後数度の変遷を経て、1889年(明治22年)4月1日に市制が施行されると同時に横浜市となった。当時の市域面積は、横浜港周辺の5.4km²。面積は狭いものの、市制施行当時、すでに戸数27,209戸、人口121,985人(1889年末時点)に達した。外国人居留地は、1899年(明治32年)の条約改正により廃止されたものの、関内地区は市政と商業の中心地として発展した。

開港当初の横浜港では、生糸、茶、海産物を輸出し、絹織物、毛織物が輸入された。当時、生糸貿易の主導権は外国商館にあった。そのため、横浜商人と呼ばれた日本人貿易商は、1873年(明治6年)には生糸改会社を設立して競争力を高め、1881年(明治14年)には生糸荷預所を設立して生糸貿易の主導権確立に努めた。また、横浜商人たちは、県営水道の設置(1887年(明治20年))、横浜共同電灯会社の設立(1890年(明治 23年))、十全病院の設立(1891年(明治24年))、生糸検査所、商業会議所の設立(1895年(明治28年))など、都市基盤の整備と商業の発達に大きく寄与した。

大正時代に入ると、鶴見川河口の埋立が始まって京浜工業地帯が形成され始め、横浜港は工業港としての性格を持ち始めた。1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災(関東地震)では、横浜港、関内を始め、市内全域で大きな被害を受けた。震災復興事業により、日本大通りの拡幅、山下公園の造成、神奈川県庁舎や横浜税関の建設などが行われ、1929年(昭和4年)にはほぼ旧状に復した。

昭和時代に入り、1926年(昭和2年)4月に第3次市域拡張が行われ、同年10月には区制が施行されて、鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷区、磯子区の5区が置かれた。以降も第6次まで続く市域拡張(1939年(昭和14年))と東京湾岸の埋立により市域は拡大し、市域面積は437.38km²(2006年(平成18年))、行政区の数は18区となっている。1930年(昭和5年)前後には、現在山下公園に係留されている氷川丸など、豪華客船の就航が相次ぎ、横浜港は太平洋航路の乗船地として、客船黄金時代の一翼を担った。また、この頃の横浜港は、生糸貿易港から工業港へと変貌し、輸出、輸入とも、機械類・金属製品、鉄鋼の割合が高まった。この傾向は、戦時中の軍需生産期、戦後の高度経済成長期を経て、より強まっていった。

1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲では、磯子区から鶴見区に至る沿岸部が焼き尽くされ、中区、西区の中心市街地は壊滅した。同年8月の終戦により占領軍が進駐し、横浜の中心市街地と横浜港は接収され、都市機能は麻痺した。占領軍は、横浜税関ビルに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ、後に東京の第一生命ビルに移転)と太平洋陸軍総司令部(AFPAC)を置き、軍事拠点とした。空襲とそれに引き続く接収により、横浜の復興は大幅に遅れた。

1951年(昭和26年)、対日講和条約が締結され、接収解除に向けた取り組みが始められた。また、この年には、横浜港の管理が国から市に移管された。条約が発効した翌1952年(昭和27年)以降、大桟橋や山下公園などが次々と接収解除された。しかし、なお市域には475万m²余のアメリカ軍施設が残る(2006年(平成18年)1月1日現在)。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鶴見区 (横浜市)

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鶴見区(つるみく)は、神奈川県横浜市を構成する18の行政区の一つ。

地理

鶴見区は、横浜市の最東端に位置し、東京湾に面する。北は川崎市の川崎区・幸区に接し、西は横浜市の港北区・神奈川区に接する。鶴見川が区内を北に蛇行して流れ、東京湾に注ぐ。北東部は鶴見川と多摩川に挟まれた平地で、北西部は末吉台地の東端から続く丘陵地。湾岸部は埋立地が広がり、市境は京浜運河を越えて扇島で東京湾に接する。中心市街地は鶴見駅周辺で、横浜市の副都心に指定されている。区内北西部には自然が残り、獅子ケ谷市民の森、三ッ池公園などがある。

かつては、全域が武蔵国橘樹郡に属した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

神奈川区

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神奈川区(かながわく)は、横浜市を構成する18区のうちのひとつ。横浜市で初めにできた区の一つで、9番目に大きい区である。

東海道の宿場町、「神奈川宿」から区名が取られた。県名も同源である。 日産自動車発祥の地である。

臨海部

概ね第二京浜より海側

旧東海道沿いには寺社や旧跡が多く点在し、かつての往時をしのばせる。海岸線の殆どは埋立地で、京浜工業地帯の一部であり、多数の工業施設や、横浜市中央卸売市場、横浜郵便集中局等の横浜市を支える施設が集中している。そのため、入江川は国道15号をくぐると枝分かれして運河になり、工場を縫う様に貨物線も通っている。AV機器で有名な日本ビクターの本社もこの地域にある。

大野町・金港町・栄町はヨコハマポートサイド地区として再開発が行われ、オフィスビルや高層マンションが多く建ち並ぶ地区となった。神奈川区で一番高い建物「ザ・ヨコハマ・タワーズ」(143m)もここに建っており、2006年には金港町に大型商業施設、横浜ベイクォーターが完成した。また、2007年には「ナビューレ横浜 タワーレジデンス」(150m)、「パークタワー横浜ステーションプレミア」(143m)、2008年には「パークタワー横浜ポートサイド」(120m)といった建物が建つ。

2006年現在、山内町・橋本町にも波が広がり「コットンハーバー地区」として再開発が始まっている。この山内埠頭から東神奈川駅へ至る地域は「東神奈川まち・海軸」として、横浜市の重点整備地域に指定されている。また、京急神奈川新町駅から新浦島町へ至る地域は「神奈川新町・新浦島町軸」として、道路・歩道の整備が行われる予定である。
第一京浜、第二京浜沿いにはオフィスビル・雑居ビル・商店・住宅等が立ち並んでいる。第一京浜よりさらに海側には、臨港幹線道路が整備中である。

この地域は、中区山下町〜みなとみらい〜新町と続く、横浜港を取り囲む臨海部の再開発の一部分になっている。地域の発展に備え、東海道貨物支線を旅客化する構想も上がっている。

横浜市は、横浜港の正面に位置する瑞穂埠頭 (横浜ノースドック) の返還を米軍に求めている。

内陸部

概ね第二京浜から新横浜通りまで

古くからの住宅密集地帯が多く、細く狭い道や急な山坂が多いのが特徴。東急東横線・JR横浜線・横浜市営地下鉄ブルーライン(3号線)沿線、幹線道路沿いに商業施設・住宅が広がる。

横浜線大口駅から京急子安駅まで続く大口通商店街は、市内で一番長い商店街である。東横線白楽駅目の前の六角橋商店街は、戦前から続く市内有数の商店街の一つで、かつては横浜市電の終点があり、買い物客で溢れた時代もあった。現在は学生街として、昭和の面影を残す商店街として、ドラマの舞台になったりと有名である。学生が多い為かラーメン屋が多く、家系ラーメンの六角家も近くにある。

1930年には横浜専門学校(現:神奈川大学)が、東横線の開通によって発展が見込まれた当地域に移転した。また、六角橋には杉山大神があり、この神社の秋の祭礼は盛大で有名である。

市営地下鉄三ツ沢下町駅から三ツ沢上町駅へ続く三ツ沢商店街は、市営地下鉄が開通する前から賑っており、現在でも近所の住民の買い物の場として現役である。

丘陵部

概ね新横浜通りより山側

第三京浜が縦断しているこの地域は、主に住宅が広がっている。元々広い耕地や里山だった所は、大きな団地や社宅となっており、今後もさらに宅地化が見込まれる地域である。旧城郷村域の神大寺・片倉・三枚町・菅田町・羽沢町には市街化調整区域内を中心に農地や農家が多く残っており、のどかな雰囲気がある。菅田町、羽沢町には、「農業専用地区」が設定されている。4.2 農業参照

昭和30年代までは神奈川大学近くまで水田が広がっており、夏にはホタルが飛び交うのどかな情景が見られたほどであった。この地域には駅がないので、最も近い横浜市営地下鉄の片倉町駅にはバスターミナルが設けられており、また、横浜駅まで直接出られるバスも多い。

羽沢町には貨物線が通っており、2015年頃に羽沢貨物駅の旅客化が予定されている。

地名の由来

「神奈川」の由来には諸説あるが、過去によく知られているものは、いずれも非科学的な民間語源説であり、地名語源としては認められない。

* 昔、神奈川宿の西の町と仲の町の間に小川があった。その川は水源が解らないので、上(かみ)がない川、上無川(かみなしがわ)と呼ばれていた。いつからか、文字が脱落して「かな川」と呼ぶようになった。これは江戸期の文人が、江戸の品川を下無川、神奈川を上無川とペア地名と見たもので、いわゆる民間語源説である。言語的にも「かみなし」が「かな」となったとするのは無理がある。東海道を歩いた文人が庶民から聞いて広めた俗語源というべきもの。

* 日本武尊が東方へ赴く際、上無川で船出の用意をしていた。日本武尊が船に乗る時、倭姫命に貰った宝剣が水面に映り、金色に輝いたので、この地を金川(かながわ)と名付けた。それから長い月日が流れ、源頼朝がこの地を訪れた時、金川の風光を賞し、「金は西の方角を司ると言う。西は上にあたり、皇城の方角でもある。ここは神が大いに示す地である。」と言い、大いに示すを「奈」の字とし、金川から「神奈川」となった。これも典型的な地名伝説であり、ほとんど文字遊びの域を出ず、地名の学問的な由来としては認められない。

* 古文書には、「神奈河・神名川・上無川・狩野川・かの川・かな川」等と記されており、これらが変化して「神奈川」になったと言われている。埼玉県にある「かな川」などの例を見ても、「かな」とはある種の地形、つまり川の形状を表した語彙と考えるのが自然であろう。「かの」川のと表記もあるところから、伊豆の狩野川などと同義ではないかとの考えもある。そうすると語構成から考えて、「曲がった」川などの可能性もあるか(櫻井澄夫説)。なお大日本地名辞書の吉田東伍などは神奈川とは、滝野川のことだと考えていて、上無川であるとは考えていない。川の大きさから考えて、その地域を代表する地名が集落名になったであろうことを考慮すると、妥当な意見であろう。

浦島太郎伝説

浦島太郎の両親の墓が白幡にあったことから、浦島町、亀住町などの地名が残っており、嘗ては足洗川という川もあった。子安通には浦島太郎が足を洗ったとされる井戸がある。

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西区 (横浜市)

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西区(にしく)は、横浜市を構成する18ある行政区のうちのひとつである。

地理

横浜市のほぼ中央に位置する。埋立地である、みなとみらい地区の開発により面積は拡大したが、横浜市18区の中で最も小さい。中央部を流れる帷子川流域近辺は平地で、近辺を東海道線や国道1号なども通過しているが、最北部と最南部の内陸側は高台となっている。中心部から海側にかけては商業地だが、その他の地域の大半は住宅地である。

経済

横浜駅やみなとみらい地区を有することから横浜市の商業中心地となっており、大規模店舗などが多数所在する。

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中区 (横浜市)

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中区(なかく)は、横浜市を構成する18区のうちのひとつである。

区勢

神奈川県庁や横浜市庁、横浜地方裁判所、神奈川県警察本部が存在し、神奈川県と横浜市の行政機関が集中している中心的な区である。金融機関や企業の支店なども多い。近年は都心回帰や、みなとみらい線開通の影響によりマンションが増えたため、人口は増加傾向にある。

なお下記に記された通り歴史的に国際色豊かで、区人口における外国人登録人口の割合は、10.1%であり、全国値の1.57%と比べ高い。横浜市の中区が占める割合は20.5%である。また、中華街を擁するため中国籍の割合が45.0%と最も高い。横浜市全体の35.5%、全国値の25.8%の割合と比べると高いことが分る。次いで韓国・朝鮮籍の割合が20.0%だが、横浜市の22.6%、全国値29.8%と比べると低い。(統計は、横浜市:2006年9月[1]、法務局:2005年[2])

地理

北部の平地には港側からビジネス街、繁華街、そして住宅街が主体になっている。中南部は内陸側が高台で「山手町」を中心としたいわゆる「山手」と呼ばれる地区は昔からの住宅地である。海岸側は全て埋め立てられて自然海岸は無く、北は新港・山下公園などの観光地で、南は埠頭・製油所などの重化学工業地帯で、横浜港の中心となっている。

川は北部を大岡川と分流である中村川が横断しており、一時期タマちゃんが現れ話題になったことがある。交通は区内の中央をJR根岸線が縦断し、国道や首都高速は北部を縦横断して中南部は海岸沿いを通っている。

歴史

戦前は絹の貿易で栄え、バルモン商会やシーベル・ブレンワルト商会など、多くの外国商社が軒を連ねていた。本町通りの一本南側にある「シルク通り」は、その名残である。インド人商人なども多かったが、現在は大半が他都市に移動するか帰国している。また英国総領事館やフランス領事館も中区に置かれていた。

航空機が移動手段の主流になる以前は、貨客船などで海外に出る移民の多くがこの地を訪れており、移民乗船の斡旋と宿泊業を行う外航旅館(移民宿)が多かった。また、山手にはかつてイギリス軍やフランス軍が駐屯していた。「フランス山」などの地名はその名残である。フランス山は、戦後しばらく仏領で、その後横浜市が買い戻した。

第二次世界大戦後は区内の大半がアメリカ軍に接収され、復興に大きな支障を来した。1970年代から1980年代にかけて主な接収は解除となったが、現在も根岸森林公園に隣接する区南西部には南区、磯子区にまたがる根岸住宅地区が存在する。また、YC&ACなどの外国人向けのスポーツクラブやインターナショナルスクールがある。

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南区 (横浜市)

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南区(みなみく)は、横浜市を構成する18区のうちのひとつで、中区から分離した際に中区の南にあることから命名された(のちに西区が中区から分離しているので現在の中区から見ると西にある)。

地理

区の中央部を京浜急行電鉄、鎌倉街道(神奈川県道21号横浜鎌倉線)が南北に縦断して通っている(鎌倉街道地下部には横浜市営地下鉄も通っている)。北部には首都高速道路狩場線、西部には横浜横須賀道路が走っている。幹線道路周辺では大きなビルやマンションが建ち並ぶが、それ以外のところでは大半が住宅地である。区内には大岡川が流れており、春になると沿岸は多くのサクラが咲き誇る。南部にある弘明寺は横浜市の寺としては最古の寺であり、弘明寺観音とも呼ばれる。かつて真葛焼の窯場があった。清水ヶ丘公園は横浜高等商業学校、横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校は横浜高等工業学校の跡地である。

歴史

* 三浦氏一族の平子氏が、堀の内一帯に居住、菩提寺の宝生寺は1171年創建。同寺保管の古文書の中に、「横浜」の地名が出てくる最も古い文書(1442年)がある。
* 現在の横浜英和女学院一帯に奥州吉良氏の一族・吉良頼康が住し、「蒔田殿」と呼ばれた。
* 1863年井土ヶ谷事件がおこる。
* 1889年4月1日 町村制施行に伴い久良岐郡戸太村、中村、大岡川村が誕生。
* 1901年4月1日 久良岐郡戸太町、中村が横浜市に編入。
* 1911年4月1日 久良岐郡大岡川村のうち現在の南区になる地域が横浜市に編入。
* 1927年4月1日 久良岐郡大岡川村(現在の港南区になる地域)、日下村(現在の港南区・磯子区)が横浜市に編入。
* 1927年10月1日 区制施行に伴い中区になる。
* 1936年10月1日 鎌倉郡永野村を編入。
* 1943年12月1日 戦時配給制度の手続の軽減を図るため、寿・大岡両警察署管内の各町を中区から分離して南区が誕生。
* 1969年10月1日 南区の南部(港南支所管内)を港南区として分離。ただし下永谷町字山谷の大部分は六ツ川四丁目と改称し、南区に残留。

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保土ケ谷区

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保土ケ谷区(ほどがやく)は、横浜市を構成する18区のうちのひとつ。

地理

横浜市の中央部にあり、関東ローム層からなる多摩丘陵の南東の端にあたる。関東平野にありながら起伏に富み、最高地は海抜99.0mに位置する。

歴史

かつて、瀬戸ヶ谷から保土ヶ谷駅一帯まで大規模な古代遺跡があったが、開発のため消滅した。 古代、旭区から当区にかけて、広大な榛谷御厨(はんがやのみくりや)が存在した。「はんがや」が「ほどがや」に転訛したという説がある。

かつては程ヶ谷(ほどがや)と書き、江戸時代には東海道五十三次程ヶ谷宿として栄えた。

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磯子区

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磯子区(いそごく)は、横浜市を構成する18区のうちのひとつ。

地理

市の東南に位置し、根岸湾に面する。沿岸部の低地の大半は埋立地であり、それを囲むように丘陵地が広がっている。区内の大部分は宅地化されているが、南部の円海山周辺には緑地が残されている。 氷取沢一帯は、大岡川の水源となっている。

かつて山手・根岸から延びる沿岸丘陵の隆起は海岸までせり出し、現在でも京浜急行屏風ヶ浦駅の地名にその残影が残る。丘陵部は横浜開港時より根岸湾遠景が尊ばれ避暑地として別邸や別荘を構えるものが多く、旧プリンスホテル跡地やひばり御殿等が歴史に名をとどめる。明治から昭和にかけて数回に渡り丘陵部手前の埋立てが行われ、県道(現在の国道16号)が根岸湾に沿って整備された。また関内・伊勢佐木町から同区八幡橋・芦名橋を経由し杉田迄市電が延伸され人口の集積が進んだ。当時の区勢は国道16号や掘割川周辺から丘陵部までの低地にある住宅街に偲ぶことができる。

1960年(昭和35年)頃から根岸湾の埋立てが行われ、重化学工業地帯が誕生した。埋立に利用した土砂は丘陵部のものを利用し、その際に同時整備したのが現在の汐見台である。当初から電気・ガス等ライフラインを地下埋設にし、全車道に歩道が設置され、下水道完備、保存緑地等、昭和30年代当時としてはかなり最新構造の都市基盤をもって整備された。その後のライフライン地下埋設は横浜都心部や港北ニュータウンで整備されていくが、現在に至っても横浜市全域の都市基盤へ応用されるには至っていない。昭和40年代には桜木町から国鉄(現JR東日本)根岸線が延伸され、沿線丘陵部の宅地開発が進み、昭和50年代には駅周辺のマンション建設が進み、昭和60年代迄人口が急増した。

区勢

現在では根岸線に加えて、首都高速道路湾岸線、国道16号、横浜市道環状2号、横浜市道環状3号による交通網に支えられ、都市基盤完成度では横浜市内屈指に至る。新規分譲住宅地が少ない為、以前の人口急増は過去のものとなったが、古くからの住宅地では高齢化も進み、若年層流出により商店街の維持を困難にしている地域もある。戦後初期にベッドタウン化を経験した区である為、今後の高齢化も他区より先行することが予測され、今後の地域活力の維持が大きな課題である。

既に区民の6割以上が横浜生まれであり、中区や南区に次ぎ、区民の横浜出生比が高い区である。

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金沢区

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金沢区(かなざわく)は、横浜市を構成する18区のうちのひとつである。一説に、鎌倉に幕府が開かれた際に、刀鍛冶が集まったことからこの名がついたと言われている。鎌倉幕府の影響として、称名寺や金沢文庫などの史跡も多く残っている。

地理

横浜市の最南端に位置し、横須賀市、逗子市、鎌倉市、磯子区、栄区に接する。海岸線を埋め立てた金沢工業地帯と同時に造成された人工海岸「海の公園」をはじめ、横浜・八景島シーパラダイスや横浜ベイサイドマリーナなど、マリンスポーツを楽しむことの出来る複合施設も最近は賑わっている。

横浜市唯一の自然海浜(野島海岸)と、市内最高峰(大丸山)を有する。

歴史

もと武蔵国倉城郡(後の久良岐郡)六浦庄内金沢村(昔はカネサワ)と呼ばれた。鎌倉時代には鎌倉に隣接する港町として栄え、北条氏により鎌倉市との境に国指定史跡として残る朝比奈切通しや、称名寺、金沢文庫が造られた。

江戸時代に入ると、1722年に米倉忠仰が下野国皆川から陣屋を金沢に移し、六浦藩が成立する(横浜市域では唯一の大名)。米倉氏は元来武田氏家臣であったが滅亡後家康に仕え、5代将軍綱吉の時諸侯に列した。その後米倉家は8代続き、1871年、明治政府の廃藩置県により8代藩主米倉昌言は六浦県知事となる。現在は陣屋跡に当主一家が住まう。なお、米倉家菩提寺は秦野市の蔵林寺にある。

1887年(明治20年)には、伊藤博文らにより現・金沢区洲崎町の料亭東屋で大日本帝国憲法の草案が起草された。作業の途中、盗人に草案の入った鞄が盗まれた話は有名である。

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港北区

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港北区(こうほくく)は、横浜市を構成する18区のうちのひとつである。

横浜市北東部に位置し、東急東横線を中心とする東部には、一戸建て住宅中心の閑静な高級住宅地が、横浜市営地下鉄を中心とする西部にはマンション中心の新興住宅地が広がっており、その一方で広い区内には随所に豊かな自然も残っていることから、市内でも人気の高い地域である。また南部の新横浜駅周辺は現在、新横浜副都心として再開発が行われている。

人口・世帯数はともに横浜市のみならず、日本の政令指定都市の行政区の中で最大である。

沿革

1939年(昭和14年)4月に都筑郡下の各町村が横浜市に合併した際、神奈川区から分区する形で成立した。都筑郡下の各町村は都筑郡一体での行政区成立を望んだが、地理的条件などを勘案し、神奈川区の大綱・日吉・師岡の各地区に城郷地区の一部、そして都岡・二俣川を除く都筑郡の各町村を以って一行政区とされた。成立当時の名前の候補として、菊名区が挙げられたが、横浜港の北にあるということで港北区に決定した。

誕生当時は、現在の港北区・緑区・都筑区・青葉区に保土ケ谷区の上菅田町・新井町をあわせた区域だったが、1969年に緑区(現在の緑区・青葉区及び都筑区の一部)を分区し、上菅田町・新井町は保土ケ谷区に編入。さらに1994年11月に行政区再編成により、区の北西部地域が都筑区に分区編入されて現在の港北区に至る。

概況

東急東横線の沿線を中心に住宅・商業地域が発達している。横浜線、横浜市営地下鉄沿線は緑を残しつつもニュータウンや大規模なマンションなどが立ち並び、今なお開発が進んでいる。新横浜駅周辺は横浜の副都心として発展している。数年後には高さ20階建ての駅ビルが完成しすべてののぞみ、ひかりが新横浜に止まることになる。

2002年のFIFAワールドカップ™の決勝の舞台となった現日産スタジアム、当時の横浜国際総合競技場があることでも知られる。

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戸塚区

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戸塚区(とつかく)は、横浜市を構成する18区の政令区のうちの一つである。

概要

戸塚は江戸時代、東海道の宿場町として栄えた。明治になると東海道線が開通、戸塚駅が開業する。近代化に伴って日立製作所など、多くの工場が進出し、高度経済成長以降は丘陵地の造成が進み、東京・横浜のベッドタウンとなっている。横浜市の副都心として指定されている。

都市整備は市中心部に比べて大幅に遅れている。特に新興開発地である東戸塚地区と異なり、戸塚駅の西口再開発事業が商店主の反対もあって計画が遅れ、一帯の再開発が課題となっていたものの、2007年6月より本格的に事業が着手され工事も開始され、西口の仮設のビル(戸塚ウエスト)に金融機関も含めて入居している。再開発は4期に亘って行われ2009年秋に第一交通広場、2010年春に商業施設、2012年秋に第2交通広場、戸塚区役所(新庁舎)などの公益施設度の完成を予定している。これにより、戦後の闇市以来の歴史を有する「旭町通商店街」は消滅する。

歴史

* 元々の戸塚区は、現在の瀬谷区(1969年分区)、泉区(1986年分区)、栄区(1986年分区)などを含み、きわめて広大な面積であった。これは、成立当時の横浜市が旧武蔵国であったのに対し、周辺町村を吸収合併し続けていく過程で、旧相模国鎌倉郡であった町村のほぼすべての部分を戸塚区としてまとめたからである。したがって、区内に「湘南」という地名を冠する機関があるが、戸塚区、瀬谷区、泉区、栄区は、“横浜でありながら鎌倉・湘南でもある”(湘南には相模の南という含意もある)ためであって、なんら不自然ではない。
* 「戸塚」の語源は、区内にある富塚八幡宮の「富塚」(とみづか)から来ているとする説が有力である。同社は富属彦命(とつぎひこのみこと、相模国造二世の孫と伝える)を主祭神とし、社殿背後には彼を葬ったという前方後円墳があるが未発掘。区内には縄文時代以来の遺跡も多い。上矢部町の富士山古墳(円墳。径25メートル)からは多様な埴輪が出土した。
* 律令制下では、相模国鎌倉郡に属した。中世までは高座郡であったとする説もあるが、面積や境界での不自然さがあり、説得性に欠ける。境川が文字通りの郡堺と考えられる。
* 吉田町一帯は、中世の豪族山内首藤氏が治めた吉田荘の一部である。
* 平安後期から鎌倉期には鎌倉党の一族がいたもようである。始祖鎌倉景政を祀る「御霊社」「五霊社」などが区内近隣に遺っている。
* 中世は、狭義での鎌倉ではなかったが、同じ郡内に鎌倉幕府や鎌倉府が置かれたため、政治動向に巻き込まれることも多かったはずである。「いざ鎌倉」という時に用いられた鎌倉街道(上道・中道)が通っていた。
* 汲沢に「源氏山」、「六郎丸」という地名が残っており、畠山重保(畠山重忠の子)の居館跡と伝承されている。
* 汲沢の宝寿院は土地の旧家・森家の建立であるが同家は森蘭丸の末裔とされている。
* 区内の俣野は、鎌倉党の大庭氏一族俣野氏の本貫(苗字)の地である。俣野景久(俣野五郎景久)(伝説上はじめて河津掛けをされた人物)が反源氏のため越後で戦死した後も、末裔がいたようである。また同地一帯には、小栗判官・照手姫伝説が残る。
* 東俣野一帯には横山大膳(横山党か?)が住していた。
* 江戸時代になると、五街道が整備され、程ヶ谷宿と藤沢宿(戸塚への宿場設置に反対していた)の間の宿駅として、両者より3年遅れた慶長9年(1604年)に矢部、吉田、戸塚を範囲とする戸塚宿が成立、幕末には東海道五十三次中、旅籠の数では小田原宿に次ぐ規模となった。のちに本陣となる沢辺家が、妹が岡津陣屋の代官彦坂元正の妾となっていた人脈を活かして幕府の裁許を得たようである。現在でも駐車場やコンビニエンスストアを経営している。なお、当家に設けられた寺子屋が富塚学舎となり、横浜市立戸塚小学校となった。もう一つの本陣内田家は、現在でも旧地のそばでスポーツ店を営む。
* 旧東海道は、ほぼ現在の国道1号と重なるが、保土ケ谷区の権太坂から品濃町までの間、秋葉町の秋葉立体、舞岡町の舞岡入口の3箇所において、旧道が今も独自に残っている。
* 原宿、鉄砲宿は、東海道の間宿である。
* 区内戸塚町にある浄土宗清源院は、徳川家康の妻妾お万の方の創建にかかり、のちに荼毘所となる。
* 品濃町、川上町は、幕末、日米修好通商条約批准書交換使節として渡米した幕臣、新見正興の領地であり、一族の墓所も現存している。
* 柏尾から庶民信仰の山である大山に向けて大山道が発していた。
* 1874年(明治7年)、当時の鎌倉郡川上村柏尾の地で、高座郡産の豚肉を使用した国産のハムがはじめて製造される。現在は名古屋に本社を持つ鎌倉ハムの社名はここに由来する。
* 1878年(明治11年)、当時の鎌倉郡役所が戸塚町に設置された。この鎌倉郡には現在の鎌倉市も含まれており、旧戸塚区(戸塚区・瀬谷区・泉区・栄区)は相模であり鎌倉であった事実の一つであるが、現在その事を遡って知る住民は少ない。
* 1887年(明治20年)、東海道線戸塚駅が開業。現在の東戸塚駅北側に位置するトンネル(清水谷戸トンネル)は、東京〜小田原間では唯一のトンネルで、武相国境を貫いている。後に横須賀線開通のため東海道線は通過となるが、再び東海道線が停車するようになったのは、東戸塚駅が設置された1980年である。
* 1939年(昭和14年)4月、戸塚町をはじめとした神奈川県鎌倉郡下の1町7村が横浜市に合併され、横浜市戸塚区となる。横浜市立戸塚高等学校は、町立時代の実科高等女学校の系譜を引く。吉田町の日立製作所は1933年完成の旧戸塚競馬場跡地(現・川崎競馬場)で、その後1942年に汲沢町に移転した戸塚競馬場跡地に現在の汲沢団地バス停がある。バス停周囲が広いのはこの為である。
* 1944年(昭和19年)、原宿町の一帯に海軍軍医学校戸塚分校が設置された。この分校は戦後に「聖母の園」という施設となったが、1955年に日本の火災史上に残る大惨事となった聖母の園養老院火災が発生している。なお現在の横浜医療センターは戦時中、海軍病院であった。
* 箱根駅伝は、横浜新道開通以前は旧東海道がルートであったため、走者はしばしば戸塚駅横の大踏切で立往生した。
* 1961年、秋葉町の無人踏切で湘南電車・ダンプ・横須賀線の多重衝突事故(死者4名)が発生したため、以降立体化された。
* 1980年、品濃町に東戸塚駅が開業。乗換のため戸塚駅の東海道線停車が復活した。
* 下倉田町花立は、かつて火葬場であり、また鳥が丘は鳥葬の場で現在は葬祭場があり、また付近一帯は、マスコミも取り上げたほどの市内屈指のミステリースポットといわれる。
* 日本人初のNBA選手・田臥勇太は、コーチを慕い、金沢区から区内の市立矢部小学校ミニバスケットボールの練習に参加していた。

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港南区

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港南区(こうなんく)は、横浜市を構成する18区のうちのひとつである。行政区再編成により、1969年(昭和44年)10月1日、南区より分区して発足した。かつては農村地帯が広がっていたが、1950年代から虫食い的に宅地開発が始まった。1970年代には野庭(のば)団地、港南台団地などといった巨大団地が形成され、人口は爆発的に増加した。発足時の人口は約9万5千人であったのが、現在では約22万人の暮らす、成熟した住宅都市として成長している。

他に特筆すべきは、廃藩置県前の旧国の相模と武蔵の国境が走っているという希有な行政区ということである。

歴史

* 江戸時代までは武蔵国久良岐郡久保村、最戸村、上大岡村、笹下村、日野村と相模国鎌倉郡永谷村、上野庭村、下野庭村であった。(なお、笹下村は更に雑色村、松本村、関村に、日野村は吉原村、宮ヶ谷村、金井村、宮下村に、永谷村は永谷上村、永谷中村、永谷下村に分立していた時期もある。)
* 1889年4月1日 市制町村制施行に伴ういわゆる「明治の大合併」で、久良岐郡大岡川村と日下村、鎌倉郡永野村が成立。
* 1927年4月1日 久良岐郡大岡川村と日下村が横浜市に編入される。
* 1927年10月1日 中区に編入される。
* 1936年10月1日 鎌倉郡永野村が横浜市中区に編入される。
* 1943年12月1日 戦時配給制度の手続の軽減を図るため中区の寿警察署・大岡警察所管内の地区を南区に分区。
* 1950年12月1日 南区役所港南出張所が開設される。
* 1964年11月1日 港南出張所が港南支所になる。
* 1969年10月1日 行政区再編成に伴い港南支所管内[1]を南区から分区し、港南区が発足。
* 1970年5月 区の人口が10万人を突破する。
* 1984年6月 区の人口が20万人を突破する。

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旭区 (横浜市)

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旭区(あさひく)は、横浜市を構成する18区のうちのひとつである。1969年に保土ヶ谷区の西部が分区して発足した。

概要

1950年代から、横浜市中心部や京浜工業地帯への通勤者のベッドタウンとして宅地化が進み、丘陵地や農地に万騎が原、上白根、左近山、ひかりが丘、横浜若葉台団地などの大規模団地が造成され人口が激増した。1999年4月には日本最大級のよこはま動物園ズーラシアが開園した。横浜市編入以前は都筑郡に属し、郡役所が都岡町に置かれたが、後に都筑区川和町に移転。隣の瀬谷区との区境は武相国境である。相模鉄道沿いの二俣川・鶴ヶ峰地区は、横浜市総合計画「ゆめはま2010プラン」で副都心に位置付けられており、2007年現在では鶴ヶ峰駅南口地区において再開発事業を行っている。

今後は2010年度より中尾町の二俣川県有地に所在する県の行政機関のうち、県立がんセンターと運転免許試験場において、県有地内での相互移転を含む大規模な改修が行われる予定。

歴史

古代、武蔵国都筑郡に属し、保土ヶ谷区から当区にかけて、広大な榛谷(はんがや)御厨(榛谷氏は坂東八平氏のうち秩父氏の流れ)が存在し、善部(膳部)、半が谷などの地名が残る。 二俣川も参照。

* 1063年 - 白瀧山成願寺(現在の白根不動)が鎌倉権五郎景政により建立される。
* 1295年 - 鶴ヶ峯の戦い。
* 1926年5月12日 - 相模鉄道の前身で、相模川の砂利運搬を主な業務とする神中鉄道が二俣川駅〜厚木駅間を開業させる。
* 1930年10月25日 - 鶴ヶ峰駅が開業。(1933年12月27日に横浜駅まで開通)
* 1969年10月1日 - 保土ヶ谷区から分区し発足した。
* 1990年 - 二俣川駅周辺地区の再開発が始まる。
* 2003年 - 鶴ヶ峰駅南口地区の再開発が始まる。

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緑区 (横浜市)

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緑区(みどりく)は、横浜市を構成する18区のうちのひとつである。

歴史

* 1939年 都筑郡が横浜市へ編入し、神奈川区のうち大綱地区・日吉地区・師岡地区・城郷地区の小机・鳥山と都筑郡のうち都岡村(現旭区)・二俣川村(現保土ヶ谷区・旭区)、柿生村・岡上村(川崎市多摩区→麻生区)を除く新治村(現緑区・保土ヶ谷区)・田奈村(現緑区・青葉区・瀬谷区)・川和町(現都筑区)・中里村(現緑区・青葉区)・山内村(現青葉区・都筑区)をもって港北区とする。(都筑郡の消滅)

(旧都筑郡西谷村は1927年に横浜市へ編入し、同年行政区の設置により保土ヶ谷区の一部となっている)

* 1969年 新治(うち上菅田町・新井町は保土ヶ谷区へ編入)・田奈・川和・中里・山内地区を緑区とし、港北区より分区して成立。
* 1977年 9月27日 緑区荏田町(現・青葉区荏田北)の住宅地に、米軍のジェット機(ファントム)が墜落。⇒横浜米軍機墜落事件
* 1980年 長津田町・瀬谷区瀬谷町・旭区上川井町の一部より瀬谷区卸本町を新設する。
* 1986年 緑区北部支所を市ヶ尾町に開設。分区準備期間に入る。(山内支所を閉鎖)
* 1994年 区の北部を青葉区・都筑区へ分区し、現在の区域となる。

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瀬谷区

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瀬谷区(せやく)は横浜市を構成する18区の中の一つ。1969年10月、戸塚区より分区された。地名の由来は「狭谷で、狭い川瀬の小谷がある土地」より。南北に5つの川が流れている。

歴史

先土器

* 旧石器時代の遺跡が本郷・林の両遺跡で見つかった。本郷遺跡は本郷二丁目にあり、石片等十数点出土。石碑がある。林遺跡は、下瀬谷中学校が建設されるにあたって発掘作業がおこなわれた。

縄文時代

* 区内からは50箇所を越える遺跡が見つかっている。
* 阿久和の大久保原、蟹沢、宮越等に縄文時代の遺跡がある。大久保原の遺跡は現在埋め立てられているが、住居跡や土器が発掘されている。釣手土器、石斧、石皿等が発掘されている。蟹沢遺跡は、阿久和団地造成にあたって発掘作業がおこなわれ、竪穴住居、貯蔵穴は見つかっている。宮越遺跡(阿久和西のセブン-イレブン付近)では住居跡257軒が見つかり、大規模な環状集落であることが判明している。また墓穴も見つかっている。
* 小金が分譲される時(昭和40年代)にも発掘調査がおこなわれ、茅山式土器が見つかった。小金第一公園付近や長屋門東側にある鉄塔付近からも縄文時代早期・中期の遺跡が見つかっている。

弥生時代

* 区内の9箇所から、遺跡が見つかっている。

古墳時代

* 古墳時代の遺跡は区内に25箇所記録されている。
* 八幡上古墳跡…若宮八幡宮にあったとされる。円墳。直刀と勾玉が発掘されたと言う。
* 別太羅塚古墳(べったらつかこふん)…上瀬谷通信隊の基地内にあったというが、基地が造られるさい、米軍のブルドーザーで破壊されたと言う。
* 長天寺古墳跡…長天寺の北側には古墳跡があり、装飾品等の出土品(人骨3体、直刀、金環、琥珀玉)は東京国立博物館に収められている。
* その他…南台3丁目に石塚山古墳、瀬谷中学校北側にもあったと言うが、詳細は不明。東野にも相沢川沿いに遺跡がある。

[編集] 奈良・平安時代

* 1978年(昭和53年)、瀬谷西高校の建設工事で奈良時代と思われる横穴墓が発掘され、人骨が発掘された。同時に盗掘のあとも見つかっている。正門から校舎に向かう道路の下部付近である。

鎌倉時代

* 南北を縦断する鎌倉街道(かまくら道)の上道は、当時の主要な街道の一つであり、源頼朝、日蓮、新田義貞などが通った跡が残されている。
o 源頼朝は鎌倉入りする前に諏訪社で宿泊したという言い伝えがある。
o 日蓮は晩年、鎌倉を出発し池上に向かう途中、妙光寺に立ち寄った。
o 新田義貞は、世野ヶ原(今の瀬谷)で、20万を越える勢力の陣揃えをして鎌倉攻めの準備をした。
* 阿久和は鶴岡八幡宮の荘園だったという記録が残されている。

室町・戦国時代

* 宝徳の頃、上杉定正の家臣、山田伊賀守経光(? - 文明2年(1470))が瀬谷・大和を治めていた(『新編相模国風土記稿』巻之六十四)。居住は瀬谷の中屋敷で大和の深見城を本拠にしていた。現在でも中屋敷、馬場屋敷、牢場坂等の居館祉に由来する地名が残されている。境川に架かる上瀬谷橋は、架け替えられる前は山田橋という名前であった。牢場坂では牢屋が置かれた場所とも馬事訓練がおこなわれていたともいわれている。
* 鎌倉に通じる道が縦断しているので合戦も多くあった。瀬谷原や楽老峰、中丸山(現在の瀬谷市民の森)は上杉禅秀の乱、享徳の乱の古戦場であった。瀬谷市民の森周辺では中丸山の合戦があり、北条氏康と大森氏が闘っている。この時氏康は初陣をかざっている。
* 小田原北条氏の時代、瀬谷は御馬廻衆(旗本)の久米玄蕃之助、阿久和は小机衆増田駿河守満栄の知行であった。
o 久米玄蕃の所領は、現在の埼玉県坂戸市森戸であったことが「小田原衆所領役帳」に残されており、他に相模国西郡別堀、そして瀬谷を合わせて101貫67文を領していた。
o 増田駿河守満栄は現在の川崎市高津区の一部を含め141貫を領していた。
* 甲斐武田氏が滅亡した時武田家ゆかりの者の一部が瀬谷に土着したと言われ、区内の善昌寺は支族岩崎丹後守が一族を弔うために開基したと伝えられている。ちなみに三菱の創始者岩崎弥太郎も岩崎家の流れを汲んでいるとされている。岩崎家はその後長田家支配の上瀬谷地域の名主となる。

江戸時代

* 1578年(天正6年)中原街道沿いの瀬谷(現在の北新、宗川寺あたり)に問屋場が設けられる。天正18年、石川弥治右ヱ門重久に経営が委嘱された。二ツ橋には、荷物等の受け渡しを行う継立場が設けられた。
* 徳川家康は東海道よりも中原街道を利用することが多く、「駿府記」によると天正18年の江戸入府の際にも利用している。また遺言により、駿府から日光に分骨されるときにも利用された。
o 二ツ橋で「しみじみと 清き流れの清水川 かけ渡したる 二ツ橋かな」と詠み、現在では二ツ橋に石碑が設置されている。
o 三ツ境駅北部にある楽老峰という名前は、徳川家康が訪れた際に命名したと言われている(当時は美屋古山と呼ばれていた)。家康が駿河に行く途中ここで休憩をし、住民が差し出した茶湯を飲んだという。記念碑が楽老峰南公園にある。
o 徳川家康が瀬谷を通過した際、瀬谷の絶景を「瀬谷八景」と命名した。二ツ橋の三叉路、中丸山北条氏康古戦場、上瀬谷の城山、五〆目、竹谷戸の鎌倉道、山田橋、別太郎塚の狩場、伊賀守の中屋敷。
o 宮沢村でも、家康が鷹狩りをしたという言い伝えがある。
* 瀬谷村に知行地を持つ旗本は、後藤氏、長田氏、本多氏。阿久和村は、安藤氏。宮沢村は、石川氏が治めていた。二ツ橋は天領であった。
o 二ツ橋は、天正年間に瀬谷郷にあった芝地を露木甚左衛門らによって開墾され、藤沢宿の支配下に置かれた。二ツ橋の千駄野(現区役所周辺)からは藤沢御殿に萱を納めていた。しかし年貢は年々増加し村人たちが正しい検知を実施することを要求し、享保10年検知が行われ、幕府の直轄領に移行され、日野氏、大貫氏を経て江川家が代官を務めた(二ツ橋に宿場があったのも一因)。正徳4年、日野小左ヱ門正晴は屋敷を中原街道と相鉄線が交差するところに、代官陣所を現在の二ッ上橋の交差点の辺りに置いた。文政7年にも、不作でも減免しない領主に対して、農民が代官に窮状を訴えている記録がある。江川英龍が二ツ橋に巡視に来た際には、露木源兵衛宅に宿泊したという記録がある。
o 宮沢は、石川重政が徳川家康関東入国により天正二十年に賜った土地で、重政は、戸塚区上矢部に屋敷を置き、寒川町大蔵、海老名市望地、大和市下草柳に計687石を賜っている。
o 下瀬谷は、後藤忠直の知行におかれた。忠直は、島津氏の庶流長徳軒の子で、長徳軒(島津運久の子で別名忠貞)は享禄年間薩摩を出奔後、北条氏綱に招かれ相模に居住した。忠直の子の忠正は、北条滅亡後徳川家康に見いだされ、瀬谷村旗本となった。代々御書院番を努める。二代後の久利の時、島津に改姓。1844年、江戸城で大火があり、瀬谷で植樹していた椰の木を伐採して中原街道で送り、江戸城復興に一役買ったと伝えられている。現在では南台に石碑ができ、近くに「梛の木石碑前」というバス停もある。久利三代後の久武のときまた後藤姓も戻る。宗川寺に墓地が残っている。
+  幕末の資料「視聴草」によると、後藤忠正(島津)の長女である大橋局は、徳川秀忠夫人お江与の方に使えていたが、秀忠の寵愛を一時期受けてしまい身ごもってしまったので、家康は後藤光次(庄三郎)の妾として下げ渡された。
o 上瀬谷は平良兼の流れをくむ長田氏領で、妙光寺に墓地が残されている。長田氏は、家康・秀忠の鷹匠を務めていた。瀬谷駅近くに鷹見塚が残されている。長田氏の先祖の一人長田左衛門尉親致は源義朝を討ち取っている。
o 相沢は代官采配の村であったが、本多一族の康重の家系を組む旗本の本多紀品が采地として明和4年に賜った。盗賊追捕頭に任命された時であった。紀品は鬼平犯科帳にも登場する。石高は2,000石を超え、江戸屋敷は番町(現千代田区)にあった。
o 徳川家康の関東入国にあたり、安藤治(次)右衛門が阿久和に所領をもらい受ける。初代定次は伏見の乱で戦死、二代目治(次)右衛門正次は阿久和の熊野神社から大坂の陣に出陣し、夏の陣で戦死した。三代目安藤正珍(まさよし)は、鍵屋の辻の決闘で仇討で荒木又右衛門に殺害された河合又五郎を匿ったとされている。菩提寺は泉区にある阿久和山観音寺、お墓山に安藤家の墓地がある。詳しくは、阿久和安藤氏を参照。
* 瀬谷村、阿久和村、宮沢村は中原街道や東海道戸塚宿の助郷が割り当てられていた。
* 瀬谷村はお鷹場があったため、将軍お鷹狩りのお達しがあれば、農繁期でも鷹狩り水夫に努めなければならなかった。
* 区内には、川口、守屋、平本、芝本、露木、北井、相沢、相原、籾山等の姓が多い。江戸時代は、名主・組頭・百姓代等を務めていたためである。守屋家は、相州東郡三十八か村の惣名主を務めた。
* 幕末になるとこの地域でも剣術が流行り、阿久和では北井家や相原家、下瀬谷では守屋平助が天然理心流の道場を開いていた。
* 慶応3年、京都守護職の任にあった会津藩主松平容保が京都からの帰還の際に、瀬谷村は人夫役として36人が割り当てられた。

明治時代

* 1868年(明治元年)瀬谷村・宮沢村は神奈川府に、二ツ橋村は韮山県に編入し、同年12月に神奈川県に編入した。
* 1873年(明治6年)「地租御改正反対運動」が起こり、1887年(明治20年)に東京上等裁判所で村民が勝訴する。運動を支えた川口儀右ヱ門と平本平右ヱ門を讚えた義民の碑が徳善寺に残っている。

この頃、瀬谷学舎、二つ橋学舎、若宮学舎、新道学舎、阿久和学舎(現在の小学校にあたる)ができたといわれている。

* 1889年(明治22年)4月1日 市町村制施行により瀬谷村、宮沢村、二ツ橋村から鎌倉郡瀬谷村が誕生する。初代村長に守屋平助、助役は露木要之助。が選出される。長天寺に役場が置かれる。
* 阿久和村は、尾勝村、上矢部村、秋葉村、名瀬村と合併して鎌倉郡中川村(中川の由来は、村の真ん中を阿久和川が流れていることから)になる。中川村役場は、岡津の向導寺から阿久和の給田(相鉄線給田トンネルのある付近)に移る。役場の建物は昭和50年頃まで残っていた。

明治期は養蚕が盛んであった。上瀬谷の野鳥館、中屋敷の石井製糸場。本郷の川口製糸場(後の本郷館)、北村の小沢製糸場。新道の守屋製糸場。下瀬谷の仙田製糸場。阿久和は北井製糸(相州改良社)、大岡家の大剛館が長屋門公園前にあった。現在では製糸場跡地の看板が立っていて、当時は江戸阿久和と呼ばれていた。区内最大の製糸工場は、1960年(昭和35年)頃まで営業していた本郷館であった。阿久和の長屋門の前でも製糸工場が営まれ、長屋門で養蚕が行われていた。必要になる水は、現在長屋門公園になっている地下に横穴が掘られそこから水を引いていた。現在では鉄の柵で囲われている。当時は桑畑が多くあった。

大正時代

* 1912年(大正元年) 国鉄程ヶ谷駅から旭区を通り、今井・又口・三ツ境を経由し二ツ橋を終点とする駅馬車が開通した。片道60銭。しかし資金が成り立たないため、廃止になったと言う。
* 1916年 瀬谷村役場が長天寺客殿より新庁舎に移転した。
* 1921年 楽老峰で武相地方陸軍特別大演習が行われた。
* 1923年 関東大震災により瀬谷村で死者1名、行方不明1名、全壊戸数53戸が被害を受ける。
* 1926年 神中鉄道が二俣川〜厚木間で営業開始。三ツ境、二ツ橋駅、瀬谷に停車場を設置。

昭和時代

* 1939年4月1日 第6次横浜市拡張計画により瀬谷村と中川村が横浜市に編入、戸塚区の一部となる。

戦時中は、上瀬谷(横須賀海軍資材集結所・第二海軍航空廠補給工場・横須賀海軍軍需部火薬庫)、本郷、(海軍施設部家屋)、南台(兵器工場=大日本兵器(現日平トヤマ)第五製作所、航空鉄砲弾を主として製造。東京府立第七中学校などから学徒が動員されたという記録がある)などが軍に強制収容され、軍用地になった。瀬谷は疎開先にもなり、横浜中心部から学童が疎開をし、1944年(昭和19年)、1945年(昭和20年)には一時的に人口が増えた。戦後、上瀬谷はそのまま米軍に接収され(上瀬谷通信施設)、南台は米軍の通信基地にされようとしていたが住民の反対運動で回避、土地は相鉄、三菱を介し横浜市に売却され市営のアパートになった。また本郷には川口航空機、瀬谷6丁目付近には皆川酸素工場など、区内各地に軍需工場があった。

* 1945年1月 瀬谷駅構内に小型機の爆弾が投下される。貨車一両が延焼。

4月3日午後10時頃 米軍の重爆撃機一機が本郷原の上空に飛来、爆弾28個を投下。その他、焼夷爆弾による家屋の焼失が相沢、二ツ橋、橋戸でもあり、中でも中村ではほとんどが灰と化したと伝わっている。

* 1957年10月20日 厚木基地(大和市)を発着したB57爆撃機が瀬谷町7830付近の山林に墜落し1名が死亡、1961年11月27日にも本郷1丁目54付近にF8Uジェット機が墜落した事故が起きている。
* 1962年5月 阿久和町の一部が三ツ境になる。
* 1969年10月1日 戸塚区から旧瀬谷村全域と阿久和町(旧阿久和村北部)が分立し、瀬谷区が誕生する。
* 1980年 瀬谷町・旭区上川井町・緑区長津田町の一部より卸本町が新設され、現在の区域となる。

横浜市における瀬谷区の位置づけ

* 1969年に瀬谷区が戸塚区より分区される際区名の応募を行ったところ、「西浜」が「瀬谷」より上回ったが、親しまれている等の理由により「瀬谷」が採用された。
* 高秀秀信市長の時代に策定された「ゆめはま2010プラン」において、瀬谷駅周辺地区は地域拠点に位置づけられ、瀬谷駅周辺の南北一体となった発展が望まれている。現状は北地区の再開発が完了したが、南地区の再開発が遅延している。また、当時は瀬谷区を横浜市の西の玄関とするという計画であった。

瀬谷区の家系ラーメン
環状4号線沿いを中心に家系ラーメンのお店が点在している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

栄区

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栄区(さかえく)は横浜市を構成する18区のうちのひとつである。

区の沿革

栄区地域の歴史は、原始・古代にまでさかのぼることができ、古代、鎌倉郡尺戸郷、荘園時代の山内荘が存在した。横穴墓の分布が特徴的である。相模国鎌倉郡であったため、特に、鎌倉時代には幕府との結び付きが強く、いたち川流域の豊かな田園が食料生産を担い、古代から伝わる製鉄の技術とともに東北地方に対する軍事政策のうえで重要な役割を果たしていたと考えられており、鎌倉道や数多くの史跡が残されている。また、鎌倉が近いことから、中世の動乱期にたびたび戦場となっており、 中村氏の一族、中村常宗が笠間に移り住み勢力を張った。

近代の発展としては、明治21年の大船駅の開業と翌年の横須賀線の開通による大船駅周辺の市街化と、 昭和42年の大船PX(占領軍物資倉庫群)返還以降の本郷台駅周辺の公共施設や高層住宅の建設、そして昭和40年代から50年代にかけての丘陵地の大規模な住宅開発があげられる。

なお、1970年代半ばまでの本郷地区は、電話が横浜電話でなく鎌倉電話に含まれ、市外局番が他の市内と異なり市内へ掛けるのにも「045」をダイヤルしなければならなかった。

区名の由来

区名は、公募により本郷区、南戸塚区、湘南区、栄区、桂区、大船区、根岸区、光区、戸塚南区、上郷区などから選定し、本郷、豊田の両地区の共栄を期し、新しい区として未来に向けて、大きく栄えていくことを祈願し、明るく、華やかなイメージのある、簡潔で、語調もよい区名を決定した。(公募時に「戸塚A区」とされていたので「A」→「栄(えい)」とされたという説もある。)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

泉区 (横浜市)

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泉区(いずみく)は、横浜市を構成する18区のうちの一つである。

歴史

* 境川、阿久和川、和泉川に沿った丘陵上に縄文時代の遺跡が分布する。弥生台は開発時に弥生時代の土器が出土したことによる。
* 古墳(高塚古墳)は今のところ区内では未見である。横穴墓は上飯田町・柳明遺跡などが挙げられる。
* 律令制下の動向は明らかでない。相模国鎌倉郡であった(下飯田町本郷が高座郡涓堤郷であったとする説もあるが不明)。高座郡との境界は境川である。ゆえに広義での鎌倉であった。
* 新橋町、岡津町が鎌倉郡大島郷と推定されている。
* 平安時代半ばの人物で鎌倉党の祖鎌倉景政を祀る「御霊社」「五霊社」が区内に存在する。大庭御厨を根拠とする鎌倉党のテリトリーであった可能性がある。境川やその支流をたどって開発を進めていったのであろう。また対岸の渋谷氏の影響も考えられる。
* 同様に「サバ神社」(左馬、鯖などの字を充てる)がいくつかある。これは一時期鎌倉(現在の寿福寺の地)に住んでいた左馬頭源義朝(または源満仲)を祭神とする。義朝は大庭御厨に乱入して殺傷事件を起こしており、鎌倉党とは微妙な関係にあった。
* 岡津町のマンション「ルネ戸塚弥生台」付近は「玄蕃山」と呼ばれ、鎌倉幕府御家人と伝える「島田三郎」(史料にはみえず。甲斐氏か)ゆかりの「島田の塚」があった。
* 岡津は、横浜市立岡津小学校一帯に城が築かれ、少弐氏や甲斐氏が支配したといわれる。また、現在の富士スーパー付近は近世、処刑場であった。
* やがて同じ郡内に鎌倉幕府や鎌倉府がおかれ、政治の中心地となる。首都鎌倉に向かうための鎌倉街道上ノ道が通っていた。また、新田義貞による鎌倉攻めはたつ道(横浜市道環状4号)であったという。
* 飯田は鎌倉党の一族ともいわれる飯田氏の苗字の地。飯田五郎家義は石橋山の合戦で敗れた源頼朝を救ったことで知られる。その館跡は現在「富士塚城址」という碑が建つ公園近辺という。飯田氏は当地の御家人として『吾妻鏡』などに名を遺している。
* 和泉町の長福寺・須賀神社は、北条氏によって滅ぼされた泉親衡ゆかりの寺社という。ただし親衡は信濃の御家人であり、泉姓から付会した伝承と思われる。同地の和泉中央公園の湧き水が「和泉」の地名の発祥といわれている。
* 上飯田町の本興寺は、寺伝では日蓮ゆかりの地であるという。のちに鎌倉にあった不受不施派寺院が慶長の法難にともなって移転してきた(現在、再興された同名寺院が鎌倉市大町2丁目にあり)。日什門流で戦前まで顕本法華宗本山、現日蓮宗由緒寺院。
* 後北条氏の時代には、『小田原衆所領役帳』によると、区内には上飯田に平山氏、下飯田に川上氏、和泉に笠原氏、岡津に太田氏がいた。岡津には現在の横浜市立岡津小学校周辺に岡津城がおかれた。のちの中田村は岡津村の枝村と考えられる。
* 江戸幕府ができると、岡津城に陣屋がおかれ、代官に彦坂元正が任ぜられた。戸塚宿に近いために、その助郷を担わされた。
* 中田村には、後北条氏の評定衆で小田原の役に際して豊臣秀吉や徳川家康との折衝に当たった三河国出身の石巻康敬が謹慎させられ、戦後そのまま旗本として認められた。家康の関東入府のおり、家康を戸塚区柏尾町で迎えた。その橋は康敬の通称にちなみ「五太夫橋」とよばれて遺っている。また中田寺の開基でもあり、付近に墓所が残る。
* 柏尾町を発し、庶民信仰の山である大山に至る大山道が区内を横断していた。領家谷・西田谷には大山道や谷戸の田畑が遺り、中近世の景観を伝えていたが、大規模ニュータウンの開発により消滅した。大山道は今も断片的に遺されている。
* 坂東三十三箇所観音巡礼の道として、弘明寺と星谷寺(座間市)を結ぶ「ほしのや道」が、和泉町の北部を通っていた。
* 江戸期、和泉は松平氏、上飯田は佐野氏、下飯田は筧氏、新橋は安藤氏の領地となった。
* 旧大山道(長後街道)と旧岡津道が交差する踊場は、猫が踊ったという伝説の場所であるが、中世の合戦の死者の墓所とも言われている。
* 1889年4月1日 町村制施行により、神奈川県鎌倉郡中川村(阿久和村・上矢部村・秋葉村・名瀬村・岡津村)・中和田村(中田村・上飯田村・下飯田村の全域に高座郡今田村及び上和田村の各飛び地)が誕生。
* 近代に入ると、和泉の清水、横山の各製糸工場、上飯田の持田、宮崎の各製糸工場、岡津の萩原製糸工場を中心に養蚕業がさかんになる。
* 1939年4月1日 鎌倉郡中川村・中和田村は、鎌倉郡戸塚町・川上村・大正村・本郷村・豊田村・長尾村・瀬谷村とともに横浜市に編入され、戸塚区が誕生した。この戸塚区の区域は横浜市の他の部分(※)と異なり、武蔵国ではなく相模国に属する。

※港南区・南区の永野地区(上永谷町・上永谷一〜六丁目・下永谷町・下永谷一〜四丁目・東永谷一〜三丁目・日限山一〜四丁目・芹が谷一〜五丁目・野庭町の全域及び日野南五〜七丁目の各一部、南区六ツ川四丁目)は1937年10月1日までは鎌倉郡永野村であったため相模国である。また現在の金沢区朝比奈町も1897年までは鎌倉郡東鎌倉村に属していたため相模国である。

* 戦時中は旧軍関係の施設として、和泉町の横根(現:変電所)に航空灯台、戸塚区深谷町を含む和泉町に海軍通信隊、市立中田小学校一帯に海軍桑原工兵部隊、和泉町に神奈川第2抑留所(外人隔離施設)が、それぞれ設置された。
* 長後街道は、敗戦直後、マッカーサーが厚木飛行場から横浜ホテルニューグラントへ向かう際に利用した道だが、中田町中西は、そのための休息所が置かれた。
* かつての人気玩具「ダッコちゃん」の製造工場が上飯田にあった。
* 1969年瀬谷区の成立により、旧中川村の内阿久和町(旧大字阿久和の北部)が同区に編入される。
* 1976年4月8日 相鉄いずみ野線がいずみ野駅まで開通。
* 1986年11月3日 栄区とともに戸塚区から分区し、泉区が誕生。
o 区名は公募の結果に基づき、候補となった和泉区・泉区・いずみ区・弥生区・いずみ野区・富士見区・中和田区・西戸塚区・北戸塚区などの中から、泉が湧き出るように若い力を生み出し、未来に向けて発展する区であることを祈願し、清らかでさわやかなイメージがあり、簡潔で語調もよい「泉区」に決定した。本来であれば区の大部分を占める旧中和田村に因んだ新区名が相応しかったが、一部に旧中川村(岡津町・新橋町・名瀬町・池の谷・緑園一〜七丁目・領家一〜四丁目・白百合一〜三丁目・西が岡一〜三丁目・桂坂・弥生台の各町)を含むため、事前に選考からは外されていた。
* 「泉区」とは瑞祥地名に分類できるが、実際には、区中心部の和泉町の存在がバックボーンにあることは否定できない。
* 1990年4月4日 相鉄いずみ野線がいずみ中央駅まで開通。既に設置されていた区役所の最寄駅となる。
* 1999年3月10日 相鉄いずみ野線が湘南台駅(藤沢市)まで開通。最終的にはJR平塚駅まで延伸される予定である。
* 1999年8月29日 横浜市営地下鉄が湘南台駅まで全面開通。

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青葉区 (横浜市)

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青葉区(あおばく)は横浜市を構成する18区のうちのひとつで、旧緑区(港北区から分区)の北部からなる。

地理

区の東側は東名高速道路(第一東海自動車道)と国道246号が走っており、それに沿うようにして東急田園都市線が走っている。区の西側は横浜高速鉄道こどもの国線が走っている。区の北西側は、東京都町田市や川崎市麻生区が接している。

区の中心を南北方向に鶴見川が貫流しており、川沿いは下流の緑区から続く市内でも珍しい広大な平野の農業用地となっている。その他の地域はほとんどが丘陵地帯であり、北西部を除いてほぼ全域が住宅地として開発されている。

地勢上、横浜都心部よりも、東京都心部に通勤通学する人が多く、このことを揶揄して「青葉都民」や「横浜都民」などとも言われている。東京都内への就業率は6割以上に達すると言われ、横浜市内で市外就業率が一番高い。なお人口は港北区についで2番目に多い。

東急田園都市線の市が尾駅周辺は青葉区役所、青葉警察署(旧緑北警察署)、県税事務所、緑税務署などを擁する行政上の区の中心部である。

沿革

* 市町村制施行前は現在の青葉区の区域は都筑郡恩田村、奈良村(後に田奈村)、下谷本村、上谷本村、成合村、鴨志田村、寺家村、鉄村、黒須田村、大場村、市ヶ尾村(後に中里村)、荏田村、石川村(後に山内村)、大棚村、牛久保村であった。
* 1889年4月1日 市町村制施行により、都筑郡田奈村、中里村、山内村、中川村が誕生。
* 1939年4月1日 都筑郡田奈村、中里村、山内村、中川村が横浜市港北区に編入。
* 1969年10月1日 港北区から分立し緑区になる。(旧中川村の地域を除く)
* 1986年11月 緑区北部支所を市ヶ尾町に開設。分区準備期間に入る。(山内支所を閉鎖)
* 1994年11月6日 港北区と緑区を再編し青葉区・都筑区を新設。
o 大部分は旧緑区から変更されたが旧港北区から青葉区になった地区もある。現在の新石川四丁目20番地付近・国道246号線東京方面沿いの地区がそれで、再編前は旧港北区中川町及び牛久保町であった。この地区はマンション群があり100世帯ほどが居住している。
o 発足当時の青葉区役所は、緑区北部支所の場所を受け継いだものであったが、現在の青葉区役所は福祉保健センター(旧保健所・旧福祉事務所)や公会堂・スポーツセンターなどが併設された青葉区総合庁舎となっている。

* 1998年3月20日 東名高速道路横浜青葉インターチェンジ開設。
* 2002年10月20日 コミュニティ放送局、FM-salusが開局。

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

* 寺家ふるさと村

東急田園都市線青葉台駅からバスで青30・寺家町循環行きに乗り「寺家ふるさと村」下車、または青31・鴨志田団地行きに乗り終点下車徒歩2分。

* こどもの国

横浜高速鉄道こどもの国線で終点「こどもの国」下車徒歩3分、または小田急線鶴川駅や東急田園都市線青葉台駅から奈良北団地方面行きバスで「こどもの国」下車。

* 佐藤春夫旧居跡(鉄町)

『田園の憂鬱』を執筆。

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都筑区

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都筑区(つづきく)は、横浜市を構成する18区のうちのひとつで、港北ニュータウンを中心とする旧港北区の北西部(山田、中川、茅ヶ崎地区等)と旧緑区の北東部(川和、池辺、東方、荏田南、荏田東地区等)からなる。 農家数では市内18区中最大である。

地理

南部の鶴見川沿いを除いて全域が丘陵地帯であり、起伏はなだらかだが高低差は大きい。東部を第三京浜道路、西部を国道246号、南部を鶴見川に囲まれる形になっており、中央部を横浜市営地下鉄が通っている。

* 河川: 早渕川、谷本川(鶴見川)

歴史

「つづき」の表記

「つづき」の表記は、よく「都築」と間違えられるが、正しくは「都筑」である。

かつてこの地一帯が「都筑郡」という地域であったことから、分区に際して名付けられた。都筑郡各町村が横浜市に編入されたときに「都筑郡」は消滅したが、「都筑」という地名は区名として復活。また、街作りが新しい「都を筑く」という区民の総意で進むことを願う意味も込められている。

現在の都筑区川和町には旧都筑郡役場が置かれ、かつての都筑郡の中心地であった。なお、当時の都筑郡の範囲は現在の都筑区より大きく、現在の緑区・青葉区・旭区の全域、保土ケ谷区の西谷町・上星川町・川島町・東川島町・上菅田町・新井町・今井町、港北区の高田西一丁目〜五丁目・高田東一丁目〜四丁目・新吉田東一丁目〜五丁目と八丁目・新吉田町・新羽町・北新横浜一〜二丁目、および新吉田東六〜七丁目と綱島東四丁目、太尾町の各一部、並びに川崎市麻生区の旧柿生村・旧岡上村の部分が含まれた。

沿革

* 1939年4月1日 都筑郡各町村が横浜市港北区・保土ケ谷区と川崎市に編入。当地は港北区となる。
* 1969年10月1日 港北区から緑区が分区される。中川地区は港北区に、残りは緑区となる。
* 1994年11月6日 港北区、緑区の各一部地域により、青葉区とともに都筑区が発足。

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