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大島町

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大島町(おおしままち)は、東京都の島嶼の北端に位置し、三原山、椿、あんこさんで知られる町である。伊豆大島全域を町域とする。気候は温暖である。 年間平均気温は、摂氏15.8度

地理

* 東京都心の南約120kmの太平洋上に浮かぶ伊豆諸島中最大の島である。人口は約9000人。

歴史

* 1908年4月1日 - 大島島庁の伊豆大島に町村制施行。岡田村、元村、泉津村、野増村、差木地村、波浮港村が発足。
* 1926年 - 大島島庁から大島支庁になる。
* 1955年4月1日 - 岡田村、元村、泉津村、野増村、差木地村、波浮港村が合併し大島町が発足。

地域

大島町は北から泉津(せんづ)、岡田(おかた)、元町(もとまち)、野増(のまし)、差木地(さしきち(じ))、波浮港(はぶみなと)の六集落から形成されているが、北の山(きたのやま:元町字北の山を中心とした一帯、岡田と元町の中間)、間伏(まぶし:野増字間伏とその周辺、野増と差木地の中間)、クダッチ(差木地字クダッチ、差木地と波浮港の中間)を一つの地域と見なすこともある。また、島内を南部と北部に二分する表現が用いられることもある。その場合、差木地より南が南部に入ることは間違いないが、間伏地区がどちらに入るかは明確ではない。

また、カルデラ式火山である三原山の外輪山から内側がどの集落に属するのかは明確にされていない。外輪山にある大島温泉ホテルは泉津字木積場(きつんば)、バス停終点付近にある歌乃茶屋付近は正式には元町字二阡坪山(にせんつぼやま)だが、俗称元町字鏡端(かねはた、かがみばた)が使われることもある。しかし、その付近の一部区域は野増に属するところもある。

ご当地ソング

* 波浮の港(作詞:野口雨情、作曲:中山晋平)

1928年(昭和3年)に発表された新民謡の名曲。大島町では午後5時になると、この曲が流れる。波浮港には記念碑がある。ただし、野口雨情は大島に来島することなく作詞したという。

* アンコ椿は恋の花(作詞:星野哲郎、作曲:市川昭介、歌:都はるみ)

波浮港を見下ろす高台に歌詞碑がある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

利島村

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利島村(としまむら)は、東京都の村。伊豆諸島の町村であるため、所属する郡が存在せず、「東京都利島村」が正式な表記である。東京都の行政出先機関は大島支庁である。

伊豆諸島の北部に位置する利島全域を村域とする。この利島についても本項で述べる。

伊勢エビ、サザエ(大サザエ)、椿で知られる。気候は温暖である。

地理

東京都心の南約130kmの太平洋上に浮かぶ伊豆諸島の島である。 島は富士箱根伊豆国立公園内にある。

レジャー

* トローリング
* ダイビング
* 椿

ただし、花の頃は交通事情が特に悪いので、訪れる人は少ない。なお、キャンプおよび野宿は全島で禁止されている(村営バンガローのある御蔵島村のような安価に宿泊できる施設もない)。旅館が1軒、民宿は数軒ある。

名物・特産品

* イセエビ
* サザエ
* 椿 - 椿油の生産量は全国一。
* さくゆり-生花、球根を販売の他、島焼酎の原料としても使用。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新島村

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新島村(にいじまむら)は、東京都の島嶼の北方に位置し、温泉、ビーチで知られる村である。人口は約3000人。新島、式根島全域を町域とする。気候は温暖である。

地理

* 新島村は東京都心の南約160kmの太平洋上に位置しており、有人島の新島、式根島、無人島の鵜渡根島、早島、地内島から成り立っている。

歴史

* 1923年10月1日 - 町村制施行。新島、式根島は大島島庁となり、新島本村(にいじまほんそん)、若郷村が置かれる。
* 1926年 - 大島島庁が大島支庁となる。
* 1954年11月1日 - 新島本村に若郷村を編入。
* 1992年4月1日 - 新島本村が改称し、新島村となる。

名産品

* くさや−ムロアジ等の島で採れる魚をくさや液と呼ばれる調味液に漬けて作られる干物。独特のにおいで好き嫌いが分かれる。新島島内には「くさやの里」と呼ばれる生産団地がある。
* 抗火石(コーガ石(こーがせき))−抗火石はガラス質で多孔性の鉱石。金属性の物質で引っ掻けば傷がつくほどもろいが、軽くて耐火性に優れる。世界的にも新島とイタリアの一部地方でしか産出されない。建材として切り出され、島外に出荷されている
* 新島ガラス−新島のガラス質の砂を原料に作られるガラス製品。独特のオリーブグリーン色をしている。島内にはガラス美術館がある。また、東京都大島支庁新島出張所及び東京都島しょ保健所大島出張所新島支所の合同庁舎正面には新島ガラスで作られた大型銘板がはめられている。
* たたき−伊豆諸島では魚のすり身を「たたき」それを揚げたものを「たたき揚げ」と呼ぶ。新島村のたたきは他の島と異なり、調味したすり身に重曹を加えているのが特徴である。そのため、加熱調理するとフワフワに膨れて独特の食感が生まれる。式根島の特産物の中で最も人気があるものは漁協婦人部(漁師の妻からなる部会)が作るたたきがある。原料は近海で捕れる青ムロアジ、トビウオである。冷凍されて販売されているものを解凍し練り直した後、油で揚げてたたき揚げにしたり、みそ汁や鍋物に落として食べる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

神津島村

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神津島村(こうづしまむら)は、東京都の村。他の伊豆諸島と同じく所属する郡が存在せず「東京都神津島村」が正式な表記である。

伊豆諸島の北部に位置する神津島をはじめ、漁業関係者や釣り人、ダイビングを趣味とする人々によく知られた銭洲などの島嶼より成る。神津島村を所管する東京都の出先機関は大島支庁である。

地理

東京都心の南西178kmの太平洋上に浮かぶ神津島を中心に銭洲、恩馳島、祗苗島などの島々より成る。

 神津島の住民のほとんどは、神津島港(前浜)周辺に集中していて、多幸湾の方は、数えるほどしか民家・建物しかない。最近はちらほら多幸湾のほうにも民家が進出し始めている。  

神津島

神津島は式根島とは10kmほどしか離れていない。伊豆諸島の有人島としては最も西にある。 神津島はひょうたん型をしており天上山(標高571m)を中心とした北部と秩父山のある南部とに大きく分けられる。

天上山には火口原があり、ここに、「表砂漠」「裏砂漠」と呼ばれる砂地がある。頂上が平坦で高度もあまり高くないにもかかわらず、本州では2000m級の高山に生育しているような高山植物も見られる山である。天上山は838年(承和5)に大規模な噴火をしたことが続日本後紀の記録などから明らかになっている。

南部と北部の間の西側の前浜沿いに主な集落がある。島の他の地域には字滝川、字高処山のように字があるが、この地域には字も町名も指定されていない。

御蔵島や青ヶ島など伊豆諸島には断崖絶壁に囲まれた島が多い中、神津島は比較的平坦で砂浜海岸が多い。

銭洲

銭洲は神津島の西に浮かぶ島である。周辺は好漁場であり、比較的古くから知られていた。国際法上の島であることは確かなのだが定住はしがたい。

歴史

神津島、恩馳島とその周囲の海底には黒曜石が豊富である。後期旧石器時代から石器の材料として採取され、大量に本州に送られた。旧石器時代の人々が船を使っていたことを示す貴重な間接証拠である。採掘は縄文時代まで続き、伊豆半島と関東地方南部に広く流通した。

神話によれば伊豆の島々を造った神様が集まるところということから「神集島」が生まれ、それが転訛して神津島といわれる。古文書のなかには「神集島」と書いているものもある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三宅村

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三宅村(みやけむら)は、東京都の村。他の伊豆諸島の町村と同じく所属する郡はなく、「東京都三宅村」が正式な表記である。三宅村を所管する都の行政出先機関は三宅支庁である。

伊豆諸島の北部に位置する三宅島及び無人島の大野原島を村域とする。2000年に雄山が噴火したことで知られる。

沿革

* 1878年(明治11年) - 東京府に移管。
* 1923年(大正12年)10月1日 - 町村制施行。三宅島、大野原島を所管する出先機関は大島島庁(後に大島支庁)となり、伊豆村、神着村、伊ヶ谷村、阿古村、坪田村の5村が置かれる。
* 1943年(昭和18年)4月1日 - 大島支庁から分立、三宅支庁となる。
* 1946年(昭和21年)10月1日 - 伊豆村、神着村、伊ヶ谷村が合併し三宅村成立。
* 1956年(昭和31年)2月1日 - 三宅村、阿古村、坪田村が合併し、新・三宅村成立。
* 2000年(平成12年) - 雄山が噴火、住民は全員島外へ避難。
* 2005年(平成17年) - 避難命令解除、住民が復帰を始める。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

御蔵島村

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御蔵島村(みくらじまむら)は、東京都にある村。他の伊豆諸島の町村と同じく所属する郡はなく、「東京都御蔵島村」が正式な表記である。御蔵島村を所管する都の行政出先機関は三宅支庁である。

伊豆諸島の中部に位置する御蔵島及び無人島の藺灘波島(いなんばじま)を村域とする。

概要

* 面積 - 20.58 km²
* 人口 - 271人
* 世帯 - 141世帯

地理

御蔵島は、東京都心の南約200kmの太平洋上に浮かぶ断崖絶壁の伊豆諸島の島である。

* 山:御山(851 m)

歴史

* 1923年(大正12年)10月1日 - 町村制施行。御蔵島を所管する出先機関は大島島庁(後に大島支庁)となり、御蔵島村が置かれる。
* 1943年(昭和18年)4月1日 - 大島支庁から分立、三宅支庁となる。

産業

* 林業、観光業、漁業

現在は観光業がメインだが、夏期を中心に需要に対し宿泊施設のキャパシティが極端に不足しているのが現状である。このため施設によっては数ヶ月先の抽選予約を行っているのが現状で、ようやく予約が取れても相部屋となる場合もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

八丈町

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八丈町(はちじょうまち)は、東京都の島嶼部、伊豆諸島の南部に位置し、八丈島および八丈小島を町域とする町。ただし、現在は八丈小島は無人島である。

歴史

* 1908年4月1日 - 町村制が施行され、八丈支庁の八丈島に大賀郷村・三根村・樫立村・中之郷村・末吉村が設置され、八丈小島に鳥打村・宇津木村が設置される。
* 1954年10月1日 - 三根村・樫立村・中之郷村・末吉村・鳥打村が合併し、八丈村となる。
* 1955年4月1日 - 八丈村・大賀郷村・宇津木村が合併し、八丈町となる。
* 1966年3月 - 八丈小島の住民から八丈町議会に「移住促進、助成に関する請願書」が提出される。6月に八丈町議会が請願を採択。
* 1967年9月 - 八丈町から東京都に対し「八丈小島の全員離島の実施に伴う八丈町に対する援助」の陳情が行われる。
* 1968年10月 - 土地買収に関する住民との協議が成立。
* 1969年6月 - 八丈小島全島民の移住が完了(全島民撤退時の島の人口は旧宇津木村9戸31人、旧鳥打村15戸60人)。「全国初の全島民完全移住」として注目された。

地域

現在の八丈町は大賀郷(おおかごう)、三根(みつね)、樫立(かしたて)、中之郷(なかのごう)、末吉(すえよし)の五集落からなる。これらの集落は1908年に八丈支庁が設置され、八丈島に町村制が施行された時は、それぞれが独立した自治体(村)であった。八丈富士と三原山の中間にある平野部に存在する大賀郷と三根をあわせて坂下地区、三原山周辺にある樫立、中之郷、末吉をあわせて坂上地区と称することもある。町の人口約九千人の内、約七千人が坂下地区に在住している。

八丈富士周辺は大賀郷と三根に属し、通称永郷(えいごう)地区と呼ばれている。かつては多数の農家が入植し、小学校の分教場が置かれたこともあったが、現在は農家が僅かに存在するだけである。

地方ではよくあることだが、各集落内は部落と呼ばれる更に細かい区域分けがされている。秋に各地区で行われる運動会では部落対抗リレーが行われたり、祭礼も部落ごとに行われることがある。

一口に八丈島といっても、集落毎住民の気性に明らかな違いがある。また、言葉についても、地元の住民によると、同じ坂下地区でも大賀郷と三根では微妙にイントネーションが異なるとされている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

青ヶ島村

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青ヶ島村(あおがしまむら)は、東京都の村。伊豆諸島の南部に位置する青ヶ島全域を村域とする。他の伊豆諸島の町村と同じく所属する郡はなく、「東京都青ヶ島村」が正式な表記である。青ヶ島村を所管する都の行政出先機関は八丈支庁である。

伊豆諸島に属する有人島としては最も南に位置しており、日本国内で最も人口の少ない地方自治体としても有名である。人口の約半分が島外出身の村役場職員や学校教員・建設作業員及びその家族で占められていることから島民の平均年齢は30歳代後半と、離島としては若い。

地理

東京の南358.4kmの太平洋上に浮かぶ伊豆諸島の島である。一番近い八丈島からは南へ71.4km離れている。

世界でも珍しい端正な二重のカルデラの複成火山の島である。外側のカルデラの中央には丸山という内輪山がある。青ヶ島の最高点はこの丸山を取り囲んでいる外輪山の北西部分に当たる大凸部(おおとんぶ)で標高423.0mである。

現在、人が定住している集落は島の北部にあり、村役場を中心に東側の休戸郷(やすんどごう)と西側の西郷(にしごう)の二つである。郵便番号は100-1701。いずれの集落であっても島内の全ての住所は青ヶ島村無番地である(大字や字に相当するものがない)。そのため、住所を書かなくても郵便番号と宛名さえ書けば郵便物が届く。ただし、住民のほとんどが「佐々木」「奥山」「菊池」「廣江」のいずれかの姓であるため、宛名は名までを間違いなく記入する必要がある。

港は島の南西部にある断崖絶壁の下の「三宝(さんぽう)港」のみである。かつての三宝港は、漁船やはしけ程度の船舶しか着けられないようなささやかな船着場であった(この頃は、人や物資の搬入は沖合いに停泊した船から、はしけでピストン輸送するしかなく、荷揚げに時間がかかった。また、少しの高波でも作業が出来なくなったため、就航率が極端に低く、天候急変による作業中の船舶の離脱もあり、積み残しが多かった)。120億円を投じて建設された現在の同港には防波堤を兼ねた貨物船用の波止場もでき、500t級の船舶が着岸できるようになった。しかし、付近の黒潮の激しさと同港の貧弱さから、定期船「還住(かんじゅう)丸」(後述)の就航率は6割弱と低い状態が続いている。このため、三宝港の補うべく島の南東部に「大千代港」が建設されたが、冬季にはほぼ毎日高い波を受け接岸できないうえ、現在は港への道路が大きく崩壊しており利用できなくなっている。

空路は1993(平成5)年8月25日以降、東邦航空のヘリコプターによるコミューター『東京愛らんどシャトル』が八丈島を経由して伊豆諸島のほかの島との間に開設されている。空路は、航路よりも運賃は高いが就航率がはるかに高いため島民の主たる足となっている。このヘリコミューターが開設される前は、いったん海況が悪化すると、一切の物資が届かず来島者も帰れないという状態が半月以上続くことが珍しくなかった。

気候は温暖湿潤である。

歴史

* 1785年 - 「天明の別れ」(天明5年の大噴火)

この年の4月18日から始まり5月頃まで続いた大噴火が青ヶ島の最も新しい火山活動である。当時327人いたとされる島民のうち202人が八丈島からの救助により避難するも、避難に間に合わなかった残りの者は爆発に巻き込まれて全員死亡したとされる。
八丈島での避難生活は、時には流人以下の扱いを受けるという悲惨なものであった。これは、不作続き(天明の大飢饉)で八丈島民だけでも食うのがやっとなのに幕府が避難民の他地域への移住を認めなかった(さらに八丈島の流人はもともと武家など身分の高い人物ばかりだった)というやむを得ない事情による。かつての豊かな青ヶ島を夢見て帰島を企てる者も幾度かあったが、八丈島と青ヶ島の間の海で遭難したり、青ヶ島に渡ることに成功しても噴火で荒廃した土地では生きていけず、かなわなかった。

* 1817年 - 隠居した名主にかわり佐々木次郎太夫が名主となる

佐々木次郎太夫の周到な計画のもとで、帰島事業が着々と進められる。

* 1824年 - 「還住」

この年についに還住(全島民帰還)を果たす。

* 1835年 - 島の再興が宣言される(検地が行われ、正規の年貢が納められるまでになった)

天明の別れから復興まで半世紀もの歳月がかかった。定期船「還住丸」の名称はこの一連の出来事に由来している。この時点での島の人口は241名(男133名、女108名)。

* 1940年4月1日 - 町村制施行

青ヶ島は八丈支庁となり、青ヶ島村が置かれる。

* 1946年1月29日 - 日本からの一時的な行政権切り離し

連合国軍総司令部(GHQ)が発表した「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件」という覚書により、日本政府の行政権から切り離される。他の伊豆諸島の町村と同じく同年3月22日に復帰。

* 1956年7月8日 - 初の国政選挙実施

青ヶ島は僻地で通信手段がないとの理由から、国政選挙および都政選挙については日本国憲法で保障された参政権が制限され、選挙に参加できなかった。短波による無線電話が整備され、この日行われた第4回参議院議員通常選挙が青ヶ島初の国政選挙となった。

産業

前記のとおり島民の約半分が村役場職員や建設作業員であるため、主な産業は公共事業及び島内出身者による農業である。農業のうち、特に畜産業(繁殖させた和牛〔黒毛和種〕の子牛を本土へ出荷、1972年〔昭和47年〕までは乳牛も飼養していた)はかつて島の基幹産業であった。近年では飼養者の高齢化による粗飼料耕作地の放棄やBSE問題などによって急速にその戸数・頭数を減らしている。

島の周辺海域はフィッシングスポットでもある。しかし、訪れる遊漁船の多くは八丈島からのチャーターであるため上陸する人は少ない。来島者の殆どは農林水産・土木関連を主とする公共事業目的の公務員及び建設作業の従事者である。

集落には5軒の民宿、1軒の自動車整備工場、2軒の商店、1軒の居酒屋がある(ただし、その居酒屋は看板がないため、島民にしか分からない)。この他に、製塩所付近にキャンプ場と地熱サウナがあるが観光地化されているとはいえない。

黒毛和牛の他の名産品としては、三宝港よりポンプで汲み上げた海水から火山の地熱を利用して作ったひんぎゃの塩(「ひんぎゃ」は島言葉で「噴気孔のある場所」の意)がある。また、島特産の「かんも」(サツマイモの1品種)を原料とした芋焼酎「青酎(あおちゅう)」が最近かなり有名である。しかし、牛の頭数減少によってかんもの栽培に用いる堆肥が減少し、また青酎自体が有名になりすぎてしまったこともあって、供給が間に合わない状態になっている。

ひんぎゃの塩及び青酎は先述の商店や八丈島の土産物店等で購入する事ができるが、実は、青酎に関しては一部の民宿でも自家製が宿泊客に振る舞われている。1984年に青ヶ島酒造合資会社が設立される前は、徴税コストに見合わない(つまり、交通の便が非常に悪いため、税務職員も行きたがらない上、税務職員が赴く事で得られるであろう税収に対して経費が掛かりすぎる)という理由で酒税が課されることもなく、密造酒のような経緯で各家庭が勝手に焼酎を作って消費していた。これは現在でも事実上黙認状態であり、一般販売されている青酎も、外見は全く同じでもその中身を実際に作った生産者の違いによって各ボトル毎に味が微妙に異なる。

牛祭り

青ヶ島村の夏祭りである牛祭りは村内最大の行事である。この日に合わせて島外にいる村出身者が大勢帰省してくるため、島内は一斉に賑やかになる。また、祭りの実行委員会が作成するTシャツ(「牛ティー」と呼ばれている)は牛を主題にして毎年異なったデザインで作成されるため、島外にもファンが多い。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小笠原村

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小笠原村(おがさわらむら)は、日本の最南端・最東端に位置する村。エコツーリズムで知られている。

概要

小笠原諸島に属する太平洋に散在する30余りの島々を村域とするが、一般住民が居住しているのは父島と母島のみである。気候は聟島列島・父島列島・母島列島・西之島では亜熱帯、火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島では熱帯の、海洋性気候である。 父島の年平均気温は摂氏23.0度、年間降水量は1280mm[1]。長らく日本国内で唯一、津波以外の気象警報・注意報が発表されない地域であったが、2008年3月から予報が開始されることとなった[2]。

伊豆諸島の町村と同様に所属する郡が存在しない。従って「東京都小笠原村」が正式な表記である。(アマチュア無線などの世界においては「東京都小笠原支庁小笠原村」と表記されることがあるが、「小笠原支庁」は東京都の出先機関であり、北海道の支庁と同様に住所表記としては間違いである)。 村の主な機能は父島に集中しており、人口が最も多い。

プロ野球読売ジャイアンツに所属する小笠原道大が観光親善大使を務めている。

地理

* 東京都心から小笠原村の中心である父島までは、約1,000km離れている。
* 山: 中央山(318m・父島)、乳房山(463m・母島)

歴史

歴史については、小笠原諸島・小笠原支庁も参照のこと。

* 1940年 島嶼町村制の適用により、小笠原支庁の父島に大村・扇村袋沢村が、母島に沖村・北村が、硫黄島に硫黄島村が設置される。
* 1946年 アメリカ軍の直接統治の下におかれる。
* 1952年 サンフランシスコ講和条約により、5村は日本政府の行政から分離され廃止。アメリカの信託統治領となり引き続きアメリカ軍管理下に置かれる。
* 1968年6月26日 アメリカ軍から返還、本土復帰すると同時に小笠原支庁の全村が合併し、小笠原村となる。

産業

* 主な産業
o 本土とは独自の生態系を持つ小笠原の自然に着目した観光が主産業である。
o 村おこしとして、村や農業協同組合などが出資した小笠原ラム・リキュール(株)がラム酒を生産している(小笠原には明治期よりラム酒を飲む習慣がある)。
o コーヒーの商業栽培が行なわれている。(日本では小笠原と沖縄のみ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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